泊まり」と言われ繁栄した宿場で、後に、東の吉身、西の今宿が加宿となり、さらに発展した。
旅籠30軒で宿内人口は1,700人であったという。
四十五丁 こ乃者満ミち」と読み取れる。また本陣推定地には石碑があり、古い井戸も残されていた。この本陣に
へ向かう旅程で宿泊したという。
R守山駅西口から西方に続く商店街「守山銀座」を500メートルばかりしばらく歩くと守山銀座西の交差点に出
る。この交差点をほぼ東西に走る道路が中山道である。この交差点を右折し次の自動車通りまでの400メートル
ばかりにかつての宿場町を彷彿させる建築物等が残っているが、かつての宿場町の賑わいは歴史の彼方に消
え、今は残暑にうだる閑散な地方都市のたたずまいである。通りの両側の灯篭をかたちどった街灯に吊り下げら