たが、兄の頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出し、義経は仕方なく腰越から
京に引き返した。その途中、京まであと一日の、ここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため、平家最後の総
大将宗盛とその子清宗を処刑したのである。義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ胴塚が
建てられた。今は狭くなっているが、塚の前には広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、
またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなった事から「蛙なかずの池」とも呼ばれている。向かって左の塚が宗盛、右
が子の清宗。現在は、「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた碑と風雪に耐えた石仏がまつられている。
避けてわざと通り過ぎたと伝えられている。
11年と500メートルの時空を越えてこの地で歴史に刻まれたことに言いようのない感動を覚えるのはわたしだけ
ではあるまい。
なお清宗の塚の前に置かれた写真やお供えは神戸に活動拠点を置く「神戸清盛隊」という平家にまつわる歴史
を紹介して、神戸の観光をPRするグループによるもの。