京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

琵琶湖疏水船その5

船は山科に出て大河のようなゆったりと流れる水面に任せながら、両岸の満開の桜の下をしばらくゆくと、川筋がすこし広がり四ノ宮の船留が見えてくる。その先の諸羽トンネルは、JR湖西線の建設等に伴う疏水路のバイパス化のため新たに造られたトンネルで、昭和45年(1970年)5月に完成した。船留で三井寺からの乗船客の一部が下船し、船留で待っていた乗客が乗り込んだ。

琵琶湖疏水船その4

      伊藤博文の扁額

わたくしどもは疏水船に乗り込み、係員の見送りを受けて出航した。乗船場からでも見えるのが第一トンネル東口洞門で洞門の上には伊藤博文揮毫の「気象萬千」(様々に変化する風光はすばらしいという意味)の扁額が掲げられている。トンネルの近くまで進むとトンネルの奥に出口の光が小さく見えていた。

工事は延べ400万人の作業員を動員し、日本で初めて竪坑(たてこう=シャフト)を利用したトンネル掘削工法を採用するなど、技術的な工夫を行いながら進められた。トンネルを掘り進む中で湧き出る大量の地下水など、多くの問題に悩まされつつも、約5年に及ぶ難工事の末、明治23(1890)年に第1疏水が完成した。この頃の日本では大規模な土木工事は外国人技師の設計監督に委ねるのが普通であったが、琵琶湖疏水の建設は、設計から施工まですべての工程を日本人の手で担った、最初の事例となったという。

トンネルの中を船は進む。ひんやりとした冷気が頬を撫でる。この第一トンネルは三井寺のある長等山の山腹を掘りぬいたトンネルであり、トンネルを出ると若葉の緑が目に飛び込んできた。疏水の水は大津市から京都市の山科に入り、京都の蹴上に向かってゆったりと流れてゆく。

琵琶湖疏水船その3

      

琵琶湖疏水は京都への通船、水力発電、飲料水の供給など多様な目的で計画された、明治期の画期的な土木工事。観音寺の取水口から京都蹴上までの延長11kmに及ぶ。工事は1885年(明治18)から1890年(同23)に及んだ。現在、取水口から三井寺観音堂下までの疏水両岸には桜並木が植えられており、春にはライトアップされ、夜桜が楽しめる。2007年国の近代化産業遺産の一つに登録され、令和2(2020)年6月には「京都と大津を繋ぐ希望の水路 琵琶湖疏水~舟に乗り、歩いて触れる明治のひととき」が日本遺産に認定されている。疏水船は現在4隻の船が就航(全長7,5メートル、定員旅客12名)している。運航ルートは大津(滋賀)から蹴上(京都)に向かう「下り便」と、蹴上から大津に向かう「上り便」の2種類。下り便のうち1便のみ、途中の山科で乗下船することもできる。

琵琶湖疏水船その2

      

      

水船三井寺船場に向かうため疏水に沿った小道を進む。途中見えてきたのが大津閘門(こうもん)である。琵琶湖の水位は京都蹴上の船溜の水位より4m高いため、大津閘門は琵琶湖と疏水路を舟が行き来するときに水門を開閉して、琵琶湖と疏水路の水位差を調整し、舟を通す役割を果たしている。第一トンネルに続く疏水の両側は桜の名所となっており、この時期疏水の両側の自動車道は観光客や花見客が大勢繰り出す、桜の名所である。わたしどもは係員の案内で疏水の小道をゆく。土手に植わった桜並木を下から眺めるという初めての風景の美しさに目を奪われる間もなく、疏水船の船影が視野に入ってきた。