京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

盛夏湖東百済寺その4 石垣と大わらじ

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喜見院庭園を抜けて参道の石段を登る。参道の両側からは青もみじの枝が覆うように垂れ下がり、まるで緑の
 
回道である。この参道の両側の平らな台地部分は織田信長の時代日本を訪れたルイス・フロイスが「地上の天
 
国一千坊」と絶賛した坊舎跡の一部である。約300面残っていて「国の史跡」に指定されている。石段の上部に見
 
える仁王門に続く石段の両側の石垣はかつての城砦化された百済寺城の遺構である。(近江の湖東地域は、そ
 
の地理的重要性から中世の戦国時代に、都とともに戦乱の海と化していった。近江の防衛上、佐々木六角氏
 
は、重臣の進藤山城守に命じて観音寺城と並んで百済寺を城壁化して『百済寺城』とし近隣に鯰江城(森城)や
 
青山城などの出城を築いていった。) 小石を積み上げた石垣であったため百済寺城を攻めた織田信長は安土
 
へ「石曳」をせず破壊されずに残ったものであるという。(信長は安土城築城のため多くの石垣に使われていた巨
 
石を畿内一円から安土から運ばせたという)。元亀4年(1573)百済寺は六角義弼の立て籠もる鯰江城を支
 
援したとして、織田信長に攻められ、伽藍はことごとく灰燼に帰したとされる。その様子が「信長公記」の天
 
正元年四月七日の章に下記の通り書かれている。
 
百済寺伽藍放火の事

四月七日、信長公、御帰陣。
 
其の日は守山に御陣取り、是れより直ちに百済寺へ御出で、二三日逗留あって、鯰江の城に佐々木右衛門督
 
(義治)楯籠るを、攻め衆人数、佐久間右衛門尉、蒲生右兵衛大輔、丹羽五郎左衛門尉、柴田修理亮に仰せつ
 
けられ、四方より取詰め、付城(つけじろ)させられ候。
 
近年、鯰江の城、百済寺より持続け、一揆と同意たるの由、聞こしめし及ばる。

四月十一日、百済寺堂塔、伽藍、坊舎、仏閣、悉く灰燼となる。
 
哀れなる様、目も当てられず。
 
其の日、岐阜に至りて御馬を納められ候ひき。

またルイス・フロイスは自身の著作「日本史」信長編Ⅱで百済寺について下記のように書き残している。
 
信長は近江の国では、さらにそれ(播磨書写山)以上の寺院を絶滅するように命じた。それらは篤(あつ)く敬わ
 
れており九百年このかた、あらゆる戦乱を免れて今に至ったものであったから、そこは相当な富が蔵されてい
 
た。それは百済寺と呼ばれた。
 
苔むした石垣は落城した百済寺城の歴史を今に伝えている。
 
左右の石垣を見て7往時をしのびながらさらに登ってゆくと仁王門の前に出る。左右に大きなわらじが吊り下げ
 
られた仁王門は百済寺のシンボルである。仁王とはお寺を守る守護神で「金剛像」「力士像」である。金剛は「阿
 
形」(開口)、力士は「吽形](閉口)で、勇猛、剛健で、とくに健脚の両足にはわらじを履く「印度発祥の東洋的な
 
神様」である。日中に仕事を終え、夜間はわらじを仁王門脇に脱いで立ちながら休まれるという。わらじのサイズ
 
は昔は仁王像の大きさに合わせて50cm程度であったが、江戸時代中頃から仁王門を通過する参拝客が健脚、
 
長寿の願を掛けるようになり、「わらじが大きいほどご利益も大きい」ということでどんどん大型になって今では3
 
mほどになったという。
 
また作家の五木寛之氏が「百寺巡礼」の第35番目に百済寺を参拝した折、年齢と体力の点で残り65寺院の巡
 
拝、訪問を大変心配して、この大わらじに「満願成就」の祈願をしていったという。そのご利益あってか1年半後に
 
見事百寺満願を達成したという。以来この大わらじは全国的に有名になり、参拝客は通門時に必ず大わらじに
 
触れてゆく慣わしになったという。