信長本廟から天主を支えていた石垣に沿ってさらに進むと広い平地にたどり着く。本丸跡である。「
信長公記」に
よればこの本丸の建物には
天皇を招き入れる「御幸の間」があったと記載されている。その後の調査で慶長年
間に改修された
京都御所内の
天皇の住居である清涼殿と酷似した構造になっていることが判明。さらに礎石上
の柱痕からこの建物が高床式であったこと、周囲の伝三の丸跡や天主取台と渡り廊下で繋がっていたこと、菊
の紋章の瓦が発掘されていること等が明らかとなり、
安土城の本丸御殿は、
天皇を迎えるための施設だったと
いう可能性が指摘されている。
天正10年(1582年)本丸は天主とともに炎上、焼失した。
本丸跡から続く石段を上ると立木の間から眺望が開け、
彦根の
荒神山が見えていた。