京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

坂本の初夏その4

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現代になって里坊の価値が見直され、再建保存されるようになり、現在里坊は54ヶ寺ある。里坊の美しい景観の

特徴である石垣は穴太衆積みの石垣と云われる。 「石の声を聴き、石に従う」といい、自然石を巧みに組み合

わせて石垣をつくる穴太衆積みの技法は、比叡山延暦寺や坂本の歴史とともに育まれてきた。そしてそれを生

み出した穴太衆のルーツは古代にある。坂本の隣町・穴太[あのう]一帯には、6~7世紀前半のオンドル遺構を

はじめ、その西方の山麓一帯にある横穴式石室墳からなる穴太古墳群が遺されている。これらは、花崗岩を使

用した野面石(のづらいし= 山野に転がっている自然石のこと)の乱積み構架法からなるもので、その構造は朝

鮮半島の高句麗百済に見られるとともに、石の配置の方法が穴太衆積みによく似ていると云われる。こうした

ことから、穴太の地に集中する特異な横穴石室の造成は、朝鮮半島から伝来した技術によるものであり、後世

に穴太衆と呼ばれるようになる技術者集団によって作られたと考えられている。穴太に多く見られる石積みの技

法は、比叡山延暦寺や坂本の歴史とともにさらに高度なものに磨かれていったと云えよう。

穴太の技術者集団は、同じ渡来氏族の縁から、伝教大師最澄比叡山延暦寺を開創するにあたり、比叡山

上の堂塔建設に力を貸したと考えられている。彼らは最澄とともに比叡山に登り、開墾のための土木工事を請

け負い、比叡山の各種堂塔伽藍の造成、基礎石垣、登山道の土留石垣、水田整備に伴う石垣畦、井戸の構築

などを通じて、石積みに特化した石工集団を形成していったのではないかと考えられている。 

時は上り戦国時代になると、穴太衆は歴史の表舞台に立つことになります。織田信長比叡山焼討ち後の処理

を任ぜられた丹羽長秀が、燃え尽きた山坊の後始末をしていたとき、石垣を崩そうとしてまったく崩せず、その石

垣の堅牢さに驚いたことを信長に報告したと伝えられている。このとき信長は比叡山に使われていた石垣が堅

固なことを知り、天正4年(1576)安土城築城に際して穴太より石工を呼び寄せ、高くて丈夫な城壁づくりに挑ん

だという。穴太衆の技術は、安土城の城壁普請という実績によって、諸国の築城の際に求められるようになり、

穴太衆の名前は全国に轟き渡るようになった。近世の坂本の復興が本格化すると、里坊建造計画にともない穴

太衆積みの石垣は坂本の穏やかな傾斜地の土地造成に活用された。これらの石垣は、築城で培った石積み技

術の粋を集めたもので、現在も滋賀院門跡や生源寺、律院など随所に残り、その優れた技を観察することが出

来る。
 
明治以降は、近代化とともに需要が少なくなり次第に石工も減少してきた。しかし20世紀に入ると、史蹟や文化

財修復工事で穴太衆積みの技術が再認識されるようになり、平成15年(2003)には、新名神高速道路の甲南ト

ンネルの本線盛土と東海自然歩道の間の擁壁構造として穴太衆積みは採用された。採用にあたってはコンク

リートブロックと同じ条件で穴太衆積みを施工し、250トンの荷重をかける実験が行われ、コンクリートの1,5から2

倍の耐荷力が実証され、その構造が科学的に注目されて地震に強い工法として再び評価されている。

今は近江に唯一、穴太衆石匠・第14代目粟田純司氏と第15代目粟田純徳氏が伝承するこの穴太衆積みの技

術は、美しく積むほどに堅牢なことも評価され、現代の建造物との融合が期待されているという。