京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

坂本日吉大社辺り 初秋の風景その5

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下坂本の国道161号線沿いにある坂本城址公園の入り口には「坂本城址」の碑が立っている。ここら辺りに明智

光秀によって築かれた坂本城があった。琵琶湖に面する平城であった。

本城は、琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の北郊に位置する。西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶

湖に面していることから、天然の要害を備えた地であった。比叡山近江国山城国にまたがっており、白鳥道

山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じており、中世、近世において頻繁に利用され、比叡山の物資輸送

のために港町として、坂本は交通の要所として繁栄していた。現在城郭の大半は宅地化され、推定地の中央

は国道161号が貫通している。1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、明智光秀近江国滋賀郡が与えら

れ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が

目的であったと思われる。宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記し

ている。その後明智光秀坂本城を拠点に近江国の平定を目指した1572年(元亀3年)-1573年天正年)

かけて木戸城田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えた。その後、石山

堅田攻城し湖南はほぼ手中に収めた。その後坂本城近江国における反織田信長に対する重要な

軍事施設として使用された。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年天正8年)亀山城の城主と

なったが、坂本城もそのまま城主となっていたようである。天正10年(1582年)6月2日本能寺の変勃発。同6月

13日山崎の戦いで敗れた明智光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗

栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われている。一方安土城の城主となっていた明智秀満は、山崎の戦い

敗戦を知り安土城から移ってきたが、羽柴秀吉軍が城を囲む中、明智秀満自身が天守に火を放ち光秀の妻子

もろとも落城したという。

公園内には明智光秀の石像が建っている。公園から眺めた琵琶湖は風光明媚な秋の気配が漂っていた。

わたしの知人が坂本に住んでいてこの坂本城の地元住民による再建運動に参加しているが、遺構がほとんど

残っていないことや資金面でなかなか難しいという。