仁王門をくぐってさらに石段を登ってゆくと本堂下の石垣が見えてくる。百済寺城だけあってその石垣は城郭そ
のものの石垣である。本堂は室町時代の明応7年(1498)に火災にあい、文亀3年(1503)に兵火をうけ、さらに織
の高弟亮算が入寺し、堂舎再興の勅許を得て諸国に勧進し、江戸時代の慶安3年(1650)現在の本堂が竣工。
現在の本堂は、一重、五間六間、入母屋造で正面中央に軒唐破風が付せられている。
ル、周囲約5メートルで、天正元(1573)年4月7日、信長の焼き討ちに逢い、焼損したが、根が生き残り、幹の周り
から蘇った。直径約80センチの中央空洞部が、焼き討ち当時の幹の直径に相当する。山号「釈迦山」にちなん
小さな球形の堅い実がなり、種で数珠を作る。寺院に多く植えられるが、釈迦が、その下で悟りを開いたとされる
遠慮がちに撞いてみたが思いの外大きな音が人気のない境内に広がっていった。秋になれば紅葉見物の人々
で鐘楼の周りも埋め尽くされることだろう。