焉の地である。1185年3月24日壇ノ浦合戦で敗れた平家一門はことごとく入水、戦死した。しかし一門のうち建
礼門院、平宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕らえられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉に向かっ
たが、兄の頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出し、義経は仕方なく腰越から
京に引き返した。その途中、京まであと一日の、ここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため、平家最後の総
大将宗盛とその子清宗を処刑したのである。義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ胴塚が
建てられた。今は狭くなっているが、塚の前には広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、
またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなった事から「蛙なかずの池」とも呼ばれている。向かって左の塚が宗盛、右
が子の清宗。現在は、「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた碑と風雪に耐えた石仏がまつられている。
義経は、元服後も何度か「鏡の宿」に立ち寄っているが、その日は義経自ら元服した「鏡の宿」を血で汚すのを
避けてわざと通り過ぎたと伝えられている。
鞍馬寺に預けられて遮那王と呼ばれていた牛若丸は16歳のとき(1174年)奥州平泉へと旅立った。藤原秀衡に
仕える吉次に伴われ平家の目を忍んでの逃避行である。鞍馬寺から山越えで仰木の里を抜け堅田から船で草
津に渡り鏡の宿へと足を進めたようである。遮那王はこの鏡の宿で元服することを希望し九郎義経という名を自
ら命名したという。それから11年後、鏡の里から500メートルほど京都に行ったところで平宗盛父子は九郎義経
によって斬首され、平家は滅亡したのであった。元服による義経の誕生とその義経による平家の滅亡がわずか
11年と500メートルの時空を越えてこの地で歴史に刻まれたことに言いようのない感動を覚えるのはわたしだけ
ではあるまい。
なお清宗の塚の前に置かれた写真やお供えは神戸に活動拠点を置く「神戸清盛隊」という平家にまつわる歴史
を紹介して、神戸の観光をPRするグループによるもの。