京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

秋の敦賀金ヶ崎城址をゆくその1

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久しぶりに秋らしい好天に恵まれた今月の10日、敦賀方面に車を走らせた。

福井県敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城が金ヶ城であっ

た。いまは金ヶ崎公園として整備されている。駐車場から金ヶ崎山の麓にある金崎宮に向かう。駐車場から出て

すぐのところにある金前寺の境内にある芭蕉句碑、鐘塚が迎えてくれる。芭蕉の「おくのほそ道」は元禄2年3月

江戸を出発し、大垣を立つ9月までの約160日間、現在の関東・東北・北陸・東海の1都12県にわたる旅について

書かれた本である。この旅で芭蕉は元禄2年8月に敦賀を訪れていて、後にも先にも敦賀を訪れたのはそれだけ

だったようである。芭蕉にとって月をみることが旅の一つの目的だったので、敦賀での仲秋の名月を楽しみにし

ていたと伝えられている。「おくのほそ道」には、芭蕉の句が50句あって、このうち福井県内で5句、そのうちの4

句が敦賀で詠まれている。また、敦賀には「おくのほそ道」に載っていない芭蕉の句が多く残されていて、市内に

は句碑が10以上存在しているという。「おくのほそ道」には、敦賀の後の足取りの記述はなく、一気に最終目的

地・大垣へと向かい完結する。そのため、敦賀は「おくのほそ道」の事実上の終焉の地でもあるといわれている。

この鐘塚に刻まれている句「月いつこ鐘は沈るうみのそこ」も「おくのほそ道」に載っていない句であるが、芭蕉

「沈鐘伝説」という話を宿のあるじから聞いて・・この句を詠んだという。「沈鐘伝説」とは南北朝時代の延元元年

(1336年)、新田義貞らの南朝軍は、後醍醐天皇の皇子の恒良親王尊良親王を奉じて北陸に下り、金ヶ崎城

入った。しかし、足利軍との戦いに破れ、義貞の子で大将の義顕は陣鐘を海に沈めた。のちに国守が海に海士

を入れて探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、龍頭(梁に吊るすために釣鐘の頭部に設けた竜の頭の形にしたもの)

が海底の泥に埋まって、引き上げることができなかったという伝説である。

その鐘塚を左に見てしばらく歩くと見えてきたのが金崎宮の鳥居である。金崎宮は「沈鐘伝説」の恒良親王、尊

親王を祭神としており、約1000本のソメイヨシノがあり桜の名所として知られている。金崎宮に参拝して、境内

左側の金ヶ崎城址に向かう登り道に向かう。