京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

師走の京をゆくその3(三年坂・二年坂界隈)

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清水寺の参道は松原通といい、しばらく下ってゆくと右手に三年坂(産寧坂)への石段が見える。その石段の途
 
中、右側にある明保野亭は幕末の「明保野亭事件」で知られる料亭である。石碑と共に店舗が現存するが、事
 
件当時は現在よりもやや北東位置にあったとされている。
 
明保野亭事件
 
元治元年6月10日1864年7月13日)に、幕府により池田屋事件の残党の捕縛を命じられた新選組が、同日に
 
料亭「明保野」(あけぼの)に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得たことから、武田観柳斎率いる新選組
 
隊士15名と、前日より応援として派遣されていた会津藩士20名のうち5名が共に捕縛に向かった。現場で会津藩
 
士の柴司が、座敷にいた武士を制止しようとしたところ、相手が逃げ出したため、取り押えようと追跡のうえ
 
傷を負わせた。直後に相手が浪士ではなく土佐藩麻田時太郎(時次郎、とする説もある)と判明したため、そ
 
の場で解放した。当初、柴の行為に問題無しとして念のため会津藩から医師と謝罪の使者を送り、これに対し土
 
佐藩側も最初に名乗らなかった麻田にも落ち度があると理解を示していたものの、翌6月11日に麻田が「士道
 
覚悟」として藩により切腹させられたことにより、若い土佐藩士たちが「片手落ち」だと激昂し、会津・土佐の関係
 
に亀裂が入りかねない事態へと発展した。結局6月12日に柴司が謝罪の意で切腹し、両者の関係悪化は回避さ
 
れた。当時、土佐藩は藩主山内容堂のもと公武合体を支持しており、会津藩との関係も良好であったが、内部
 
には土佐勤王党など倒幕を目論む勢力もあり、その中で起きた傷害事件はまさに両藩の関係に水を差すもの
 
であった。柴司は自らの職務を遂行したのみであったが、自ら犠牲となる事で両者の関係悪化を食い止めた。
 
この事件の舞台となった明保野亭は当時、他にも多く見られた様に料亭旅宿を兼ねており、倒幕の志士による
 
密議にも多く利用されていたことが事件の背景にあったと考えられる。また、土佐の坂本龍馬の常宿の1つと言
 
われている。
 
その明保野亭の前を過ぎ、さらに下ってゆくと二年坂(二寧坂)への降り口が見え、そのまま真直ぐに下って行く
 
八坂の塔の前に出、二年坂を下ってゆくと高台寺坂本龍馬ら幕末に倒れた志士たちの墓がある墓地や幕
 
末の資料を展示する霊山歴史館などがあり、三年坂や二年坂を歩くと幕末にタイムスリップしたような感覚を覚
 
える場所であり、幕末の志士たちが歩いた道として京都観光のスポットである。特に三年坂からの八坂の塔
 
眺めが美しい。