京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

萩 明倫館跡・野山獄跡・岩倉獄跡

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この「長州をゆく」もそろそろ終盤にかかっている。この日の午後新山口駅から新幹線に乗って帰らねばならな

い。高杉晋作の誕生地から観光地図を追いながら、先ず明倫館跡に向かった。明倫館(めいりんかん)は、長州

藩の藩校。水戸藩弘道館岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称された。1718年(享保3年)、萩

藩6代藩主毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建(敷地940坪)。1849年(嘉永2年)には、14代藩主毛利敬親

が藩政改革に伴い萩城下江向へ移転(敷地15,184坪。建物総坪数11,328坪、練兵場3,020坪)。図書館としての

機能も持っていた。萩明倫館は、現在、萩市立明倫小学校の敷地内となっており、有備館、水練池、聖賢堂など

の遺構が残っている。1929年(昭和4年)12月17日、国の史跡に指定されている。著名な出身者には桂小五郎


明倫館や津和野のページで紹介した養老館のように江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立し

た学校を藩校という。藩黌(はんこう)、藩学(はんがく)、藩学校ともいう。

徳川家光時代までの武断政治から文治政治への転換と共に、藩校が各地に設立されていった。日本初の藩校

は、1669年(寛文9年)に岡山藩池田光政が設立した岡山学校(または国学)である。全国的に藩校が設立さ

れた時期は宝暦期(1751年〜1764年)以後であり、多くの藩が藩政改革のための有能な人材を育成する目的で

設立した学校が多い。また柳河藩米沢藩のように江戸時代中期頃に藩の儒臣の自宅につくられた孔子廟

講堂を江戸時代後期に移転、拡大し藩の役職に藩校関係職を設立して藩営化して藩校とする場合も見られる。

各地では優秀な学者の招聘も盛んに行われた。発展期には全国に255校に上り、ほぼ全藩に設立された。藩校

の隆盛は、地方文化の振興や、各地域から時代をリードする人材等の輩出にも至った。代表的な藩校としては、

会津藩の日新館、米沢藩興譲館長州藩の明倫館、中津藩の進脩館、佐賀藩弘道館熊本藩の藩校時習

館、鹿児島藩薩摩藩)の造士館などが有名である。特に薩長の雄藩では教育においても優位に立っており、薩

長土肥の連合において有力な人材を輩出した。全国各地の犯行は明治維新以降もさまざまな学制改革を経て、

現在も連綿と続いている藩校もある。例えば弘前藩の稽古館は現在東奥義塾高等学校仙台藩明倫養賢堂

は現在東北大学医学部、宮城県仙台第一高等学校会津藩の日新館は現在福島県会津高等学校、小田原

藩の文武館は現在神奈川県立小田原高等学校小浜藩の順造館は現在福井県立若狭高等学校、彦根藩の弘


現在熊本県立済々黌高等学校らがある。そしてこの明倫館は現在山口県萩市立明倫小学校、山口県立萩高等

学校として存立している。

野山獄跡、岩倉獄跡は市内の閑静な住宅街の道路に向かい合って存在していた。正保2年(1645)9月17日、酒

に酔った大組藩士禄高200石・岩倉孫兵衛が、道ひとつ隔てた西隣りの同じく大組藩士禄高200石・野山六右衛

門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという事件が起こった。藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処

したが、喧嘩両成敗ということで両家は取り潰し、屋敷は没収された。後に藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩

倉に非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢を岩倉獄とした。野山獄には、安

政元年(1854)海外密航に失敗した吉田松陰が投じられ、岩倉獄には従者だった金子重之助が投じられた。野山

獄には維新前夜の文久・元治年間(1861~64)、藩内の論争に際して高杉晋作楫取素彦ら多くの志士も入牢

し、また十一烈士など尊皇攘夷派だけでなく、保守派の坪井九右衛門や椋梨藤太など、多くの人々が処刑され

たところであり、云わば幕末暗黒史の生き証人である。