この「長州をゆく」もそろそろ終盤にかかっている。この日の午後新山口駅から新幹線に乗って帰らねばならな
い。高杉晋作の誕生地から観光地図を追いながら、先ず明倫館跡に向かった。明倫館(めいりんかん)は、長州
が藩政改革に伴い萩城下江向へ移転(敷地15,184坪。建物総坪数11,328坪、練兵場3,020坪)。図書館としての
明倫館や津和野のページで紹介した養老館のように江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立し
た学校を藩校という。藩黌(はんこう)、藩学(はんがく)、藩学校ともいう。
れた時期は宝暦期(1751年〜1764年)以後であり、多くの藩が藩政改革のための有能な人材を育成する目的で
講堂を江戸時代後期に移転、拡大し藩の役職に藩校関係職を設立して藩営化して藩校とする場合も見られる。
各地では優秀な学者の招聘も盛んに行われた。発展期には全国に255校に上り、ほぼ全藩に設立された。藩校
の隆盛は、地方文化の振興や、各地域から時代をリードする人材等の輩出にも至った。代表的な藩校としては、
学校として存立している。
野山獄跡、岩倉獄跡は市内の閑静な住宅街の道路に向かい合って存在していた。正保2年(1645)9月17日、酒
門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという事件が起こった。藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処
したが、喧嘩両成敗ということで両家は取り潰し、屋敷は没収された。後に藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩
倉に非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢を岩倉獄とした。野山獄には、安
政元年(1854)海外密航に失敗した吉田松陰が投じられ、岩倉獄には従者だった金子重之助が投じられた。野山
たところであり、云わば幕末暗黒史の生き証人である。