京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

津和野の町並みその1

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

西周の旧宅から町の中心に戻り、大きく西に傾いた落日の中、まだ明るさの残る町中を散策する。

和野はまことに静かな城下町である。ここを治めていた津和野藩は戦国時代、大内氏、毛利氏に仕えていた

豪族の吉見氏が支配していた。そのため、関ヶ原の戦いまでは毛利領であった。慶長5年(1600年)10月15日の

関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家の従兄弟坂崎直盛(宇喜多詮家)が秀家と不仲であったことから東軍につき、戦

功により3万石にて立藩する。直盛は城下町建設、検地、城郭の大改修を行なって藩政の基礎を固めた名君で

あった。元和元年(1616年)、直盛は大坂の陣千姫救出に活躍し、元和3年(1617年)7月20日に1万3468石の

加増を受けた。しかし9月11日、千姫事件の余波により、直盛は家臣により殺害され(自害したとも言われる)た

ため、坂崎氏は断絶した。代わって元和3年(1618年)7月20日因幡鹿野藩より亀井政矩が4万3000石で入封す

る。以来、亀井氏明治時代まで藩主をつとめた。江戸中期には紙を専売とし、家老・多胡氏を中心に新田開

発を行うなど、藩の財政は潤った。しかし、後期になると災害と凶作が続き、財政は悪化した。そのような中、第8

代藩主矩賢藩校養老館を創立した。最後の第11代藩主茲監は藩政改革を実行し、有能な人材を登用した。

また神道を信奉し、国学の発展に力を注いだ。幕末には長州藩の隣藩であったが、中立を維持した。だが、その

距離の近さから藩士の中には長州藩と行動を共にするものもあり、結果的には新政府内に人材を送り込むこと

になった。明治4年(1871年)7月に詔勅された廃藩置県に先立って、茲監は廃藩建議書を提出し、同時に藩知事

を辞職した。その後、浜田県を経て島根県編入された。

津和野城は町の南端に位置する標高370mの山上にあった。別名を三本松城、蕗(ふき)城、山の名を霊亀山と

いう。南北3kmにのびる丘陵上にあり、中世には全山が城塞として使用された。現在は津和野城跡として公園と

なっている。津和野の町のなかでも殿町通りあたりは最も古いたたずまいを残している場所である。カトリック

会、藩校養老館跡、郡庁跡、津和野藩家老多胡家表門など多くの史跡が集中している。武家屋敷の中の建物

に津和野庁舎が入り、津和野教育委員会の表札が掲げられているなど、地方の小藩の城下町としての雰囲気

が濃厚に漂っている。また司馬遼太郎の「街道をゆく」の挿絵画家であった安野光雅(絵本のノーベル賞と言わ

れる「国際アンデルセン賞」を受賞し、世界的に活躍している画家)はこの津和野出身であり、山口線の津和野

駅前に津和野町立安野光雅美術館がある。