京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

萩 維新を訪ねてその2(毛利家菩提寺東光寺)

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玉木文之進旧宅を過ぎてさらにゆるやかな坂道を登ってゆくと朱色の山門が見えてきた。毛利家の菩提寺であ

る東光寺である。東光寺(とうこうじ)は、黄檗宗の寺院で山号は護国山。本尊は釈迦牟尼仏吉田松陰誕生地

近くの萩市大字椿東字椎原にあり、元禄4年(1691年)萩藩3代藩主毛利吉就が建立した。吉就は若くして黄檗

宗に帰依して、本山黄檗万福寺に範を求めて広壮な堂を建立。萩出身の高僧・慧極道明禅師を開山に迎えた。

吉就の死後、ここを墓所とし毛利氏の菩提寺となった。仙台藩伊達家の大年寺、鳥取藩池田家の興禅寺と並ん

黄檗宗三大叢林のひとつ。様式は中国の明時代の末から清時代の末にかけての黄檗伽藍様式。伽藍の配

置は龍の形を表したものと伝えられる。元禄6年(1693年)頃建立の総門、元禄7年(1694年)頃建立の鐘楼、元

禄11年(1698年)建立の大雄宝殿、文化9年(1812年)建立の三門の4棟の建造物が重要文化財に指定されてい

る。参道を進むと左手に元治甲子殉難烈士墓所がある。元治元年(1864年)、京都の禁門の変により幕府への

謝罪のため元治元年(1864年)、京都の禁門のにより幕府への謝罪のため、岩国で自刃した福原元、徳山で

自刃した益田親施国司親相の3家老。反対派により萩野山獄で処刑された宍戸真澂、山田亦介、前田孫右衛

門、竹内正兵衛(享年46)、毛利登人、松島剛蔵中村九郎、佐久間左兵衛(享年32)、大和弥八郎、渡辺内蔵

太、楢崎弥八郎(享年28)ら十一烈士。俗論党のために萩で自刃を命ぜられた清水清太郎。幕府の萩征伐の

起因の責任を感じて山口で自刃した周布政之助。これら身をもって難に殉じた藩士のために明治29年(1896年)

に建てられた慰霊墓所である。この他、選鋒隊によって暗殺された藩主の使者3名、桜井三木三(みきぞう、享

年36)、香川半助(享年35)、冷泉五郎(享年25)鎮静会議員の墓が祀られている。

幕末の毛利家の当主毛利敬親 (もうりたかちかー長州藩の第13代藩主 安芸毛利家25代当主)は家臣の意見

に対して異議を唱えることが無く、常に「うん、そうせい」と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれた。一部に政

治的には賢明な藩主ではなかったとの評価もあり、幕末の四賢侯にも数えられていない。司馬遼太郎は『世に

棲む日日』の中で、「敬親に世界観がなかった、といえばかれに酷だろう。かれはかれ自身独創力というものは

もたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった」。「あ

る意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩

内の賢士を近づけた」と書いている。また文芸評論家で小説家でもある清水義範は『偽史日本伝』の短編で敬親

を取り上げ、「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、

という不思議な人も歴史の中には存在するということだ。」と評している。また版籍奉還後すぐ隠居したことから、

私欲や野心が無かったと評している。

拙作ブログ別ぺージ「別編司馬遼太郎」の『世に棲む日日』ーを参考までにご笑覧ください。