宗に帰依して、本山黄檗万福寺に範を求めて広壮な堂を建立。萩出身の高僧・慧極道明禅師を開山に迎えた。
置は龍の形を表したものと伝えられる。元禄6年(1693年)頃建立の総門、元禄7年(1694年)頃建立の鐘楼、元
謝罪のため元治元年(1864年)、京都の禁門のにより幕府への謝罪のため、岩国で自刃した福原元僴、徳山で
太、楢崎弥八郎(享年28)ら十一烈士。俗論党のために萩で自刃を命ぜられた清水清太郎。幕府の萩征伐の
に建てられた慰霊墓所である。この他、選鋒隊によって暗殺された藩主の使者3名、桜井三木三(みきぞう、享
年36)、香川半助(享年35)、冷泉五郎(享年25)鎮静会議員の墓が祀られている。
に対して異議を唱えることが無く、常に「うん、そうせい」と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれた。一部に政
棲む日日』の中で、「敬親に世界観がなかった、といえばかれに酷だろう。かれはかれ自身独創力というものは
もたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった」。「あ
る意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩
を取り上げ、「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、
という不思議な人も歴史の中には存在するということだ。」と評している。また版籍奉還後すぐ隠居したことから、
私欲や野心が無かったと評している。
拙作ブログ別ぺージ「別編司馬遼太郎」の『世に棲む日日』ーを参考までにご笑覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/sna65954/24185194.html (2006.11.23)