京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

萩 維新を訪ねてその3(毛利家菩提寺東光寺)

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元治甲子殉難烈士墓所を過ぎて参道は直角に右に折れていた。参道を見やると深い木立の中を参道が続いて

いて、その先の門の向こうが秋の陽にあかるく輝いていた。毛利家の廟所である。萩藩主3代(萩での藩主の代

数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)毛利吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元の奇

数代の藩主の5基と、それぞれの夫人の合計10基の他、側室など近親者20余基がある。また、重臣諸家の献上

した石灯籠500基が並んでいる。国の史跡に指定されている。なお初代秀就と偶数代の藩主は萩市の大照院に

廟所がある。秀就の父・輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある。織豊時代は毛利氏として中国地方最大の戦国

大名の家柄を誇り、関ヶ原の合戦以降は豊臣方についたことで領地を減封されて外様大名となり、幕末に至り

全藩挙げて維新回転の原動力となった長州藩、そのエネルギーを秘めて廟所は静まりかえっていた。徳川時代

長州藩はこんな逸話が残されている。毎年元旦の夜明けに重臣が藩主に対し「今年こそ徳川幕府を倒され

ますや」と尋ねると、藩主は云う「いや、まだその時期ではない」と。そうして藩主以下全藩士は江戸に足を向け

て床に就いたという。関ヶ原の合戦以降徳川幕府に対する積年の恨みが全藩士の心の中で芽生え、熟成され、

幕末にその時期が到来し、一挙に噴き出したといえるのではなかろうか。

長州人(山口県民)の気質とは。270年近く続いた江戸幕府をひっくり返し、近代日本の扉を開いた明治維新。そ

れを推進したのは薩長土肥とされているが、一番の中心は長州=山口県だという強い思いが、山口県人の頭に

はある。幕末の「八月一八日の政変」以来、ことごとく長州に敵対してきた会津福島県)の人々に対し、「許すま

じ」という姿勢を長年崩さなかったのも、それと深くかかわっていそうだ。無類の負けず嫌いと言っていい。吉田

松陰、伊藤博文桂小五郎高杉晋作など、維新回天を推進した人物も数多く輩出しているから、長州こそ日本

で最優秀の藩であった、いや現代も県であるという誇りを失わずにいるのが山口県人である。もともと中国地方

全域を支配していた毛利氏に仕えていた人々が多いだけに、発想の幅も行動力も想像以上にスケールが大き

い。それに見合った使命感・責任感もあるから、一国の大事も喜んで引き受ける。事実、これまで山口県からは

総理大臣が8人も出ている。薩摩(鹿児島県)の3人、土佐(高知県)の2人、肥前(佐賀・長崎県)の1人に比べれ

ば、その差は歴然である。しかも、そうした思いが一般人にも息づいている。ただ、それが時として、他県出身者

に対し高飛車な言動として表れることもある。教育熱心な県民性の影響だろう、頭脳明晰な人が多い。弁も立つ

から、山口県人と議論して勝つのは難しいという。また、そのエネルギーがビジネスに向かうと、ユニクロの柳井

正やゼンリンの原田康、古くは鮎川義介(日産)、久原房之助(日立)、藤田伝三郎(藤田組=現DOWAホール

ディングス)等といったビッグカンパニーの創業者を生み出した。今を時めく安倍総理も、その父祖である岸信介

も、また岸の実弟である佐藤栄作も長州人であり、元総理大臣である。