元治甲子殉難烈士墓所を過ぎて参道は直角に右に折れていた。参道を見やると深い木立の中を参道が続いて
いて、その先の門の向こうが秋の陽にあかるく輝いていた。毛利家の廟所である。萩藩主3代(萩での藩主の代
数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)毛利吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元の奇
数代の藩主の5基と、それぞれの夫人の合計10基の他、側室など近親者20余基がある。また、重臣諸家の献上
した石灯籠500基が並んでいる。国の史跡に指定されている。なお初代秀就と偶数代の藩主は萩市の大照院に
ますや」と尋ねると、藩主は云う「いや、まだその時期ではない」と。そうして藩主以下全藩士は江戸に足を向け
幕末にその時期が到来し、一挙に噴き出したといえるのではなかろうか。
じ」という姿勢を長年崩さなかったのも、それと深くかかわっていそうだ。無類の負けず嫌いと言っていい。吉田
で最優秀の藩であった、いや現代も県であるという誇りを失わずにいるのが山口県人である。もともと中国地方
全域を支配していた毛利氏に仕えていた人々が多いだけに、発想の幅も行動力も想像以上にスケールが大き
い。それに見合った使命感・責任感もあるから、一国の大事も喜んで引き受ける。事実、これまで山口県からは
ば、その差は歴然である。しかも、そうした思いが一般人にも息づいている。ただ、それが時として、他県出身者
に対し高飛車な言動として表れることもある。教育熱心な県民性の影響だろう、頭脳明晰な人が多い。弁も立つ