東光寺から自動車道路に出てしばらく歩くと道路が二手に別れていて、右への道路の入り口に「吉田松陰之墓」
ている。中央の吉田松陰の墓はのびやかな丸みを帯びた墓石であり、かたわらの説明板には「吉田家第七代
獄にて処刑される。行年三十才」と記されていた。
この松陰に対し、幕府の評定所は二十七日の朝、死罪を宣告した。そのあと獄舎の廊下で裃
紋付のまま縄をかけられ、獄内の刑場にひきだされた。
死。
それは定例によって首斬り浅右衛門が三尺の野太刀によって執行した。
浅右衛門家は代々のその役である。その家につたわっている一つ話として、江戸中期のころ
の思想家山県大弐の死を執行したとき、その最後はみごとであったという話がつたわっ
ているが、この浅右衛門は、
「しかし、十月二十七日に斬った武士の最後が、それ以上に堂々としてみごとだった」
と、あとでひとに語った。浅右衛門にとっては執行の日付だけを知っていて、その武士の名は
知らない。
この日、江戸はみごとな晴天で、富士がよくみえた。