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愛読書16 「跳ぶが如く」

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翔ぶが如く」は昭和47年1月から昭和51年9月まで毎日新聞に連載されました。明治維新の功労者であっ

た薩摩の西郷隆盛大久保利通の後半生を描き、明治維新薩長藩閥の本質を描いています。明治5年、

のちに警視庁を創設する薩摩の川路利良が明治政府の司法省の一官吏として、英仏独における司法制度調

査のため渡仏したところから小説は始まり、西郷隆盛大久保利通との政治論争である征韓論に敗れて下

野し薩摩に帰郷してから、明治10年西南戦争勃発と西郷隆盛の死、そして明治11年の紀尾井坂での大久

保利通の暗殺、明治12年川路利良の病死までの明治政府の草創期の3人の薩摩の人物像を司馬さんは克

明に描いています。

◎わたしと「翔ぶが如く

革命は三段階の過程を経て成し遂げられるものだといわれています。すなわち初期段階はその革命に民衆

を引き込む人間的魅力を持ち、かつ革命を正当化する理論を展開し得る人物の登場です。第二段階は武力

でもって革命を推進し成就させる強いリーダーシップと信念、大衆が喜んで死んでもいいと感じさせる宗

教的雰囲気をもった扇動者であり、強烈なカリスマを持った人物の登場です。そして最終段階は革命の成

就した後の社会を建設する官吏的行政能力を備えた実務に長けた人物が登場します。明治維新も革命の一

つと考えると、第一段階の登場人物は愛読書15「世に棲む日日」で紹介した長州の吉田松陰かそれにあた

ります。第二段階は長州の高杉晋作であり、久坂玄端であり、桂小五郎であり、土佐の坂本竜馬であり、

武知半平太であり、そしてこの小説に登場する西郷隆盛です。最終段階の人物は同じくこの小説に登場す

大久保利通川路利良、長州の伊藤博文井上馨、土佐の板垣退助後藤象二郎、佐賀の江藤新平たち

です。大久保利通は第二段階から最終段階にまたがっている人物といってもいいかもしれません。第二段

階までの人物はほとんどが非業の死を遂げます。その遺体を踏み越えて第三段階の人物が登場してくると

いっていいと思います。西郷隆盛の人間像は多くの小説家や歴史家が書いていますが、著者の大半がその

人物像を苦労して書いています。薩摩の志士として活躍した時代の人間像と明治維新の元勲として明治政

府に仕えた政府高官として、征韓論に敗れて下野して薩摩に戻った野人としての人間像が、これが同一人

物かと思われるように大きく違っているからです。司馬さんはその違いに大きな興味を抱いています。薩

摩の志士として活躍した時期は幼友達であり同士である大久保利通が薩摩の国許で、西郷隆盛は京都の薩

摩藩邸で互いに連絡を密にしながら倒幕活動に従事しました。薩摩人は権謀術数に長けているとの評判の

通り西郷隆盛は、時に京都守護職である会津藩と手を組んで長州藩を京都から追い出したかと思えば、土

佐の坂本竜馬の仲介により長州と薩長同盟を結んだり、また新選組から脱退した伊東甲子太郎に手を貸し

たり、また坂本竜馬を暗殺した黒幕とも言われており、自藩のためには手段を選ばない活動をしていまし

た。このような動きをすべて指揮していたのが西郷隆盛大久保利通でした。革命はきれいごとだけでは

進まず、裏側でのどろどろとした陰謀がないと成就しないのです。西郷隆盛は幕府の動きや幕府側の雄藩

の動き、朝廷の公家たちの動き、長州や土佐の志士たちや諸外国の動き等あらゆる情報の収集に努め、分

析して方針を決定しました。そのような統率力や判断力のある西郷隆盛が明治政府の高官になった後はた

だの凡人になってしまったのです。征韓論で同士であった大久保利通と対立して破れ、薩摩に帰ってから

は自分の思想や考え方を述べることもなく、西郷隆盛を崇める薩摩藩士の反乱、いわゆる西南の役の首魁

に祭り上げられる結果となって、最後は鹿児島の城山で自刃します。この西郷隆盛の人物の心境の変貌を

司馬さんは次のように書いています。

明治後の西郷は、陰画的であった。

倒幕段階の西郷はたしかに陽画的で、かれがどういう人物だったかを、ほぼ私どもはつかむことができ

る。

中略

かれは徳川幕府成立のときから幕府の仮想敵国ともいうべき最強の雄藩にうまれ、江戸期きっての聡明な

藩主ともいうべき島津斉彬から弟子のように可愛がられ、斉彬死後、その卓越した世界観の相続者として

藩社会から見られた。

しかし実際の相続者は、斉彬とは直接の接触のなかった大久保であったろう。が、薩人の気風として大久

保型は好まれず、西郷の人間ばなれしたほどの無私さと、高士の風のある独特の愛嬌と長者としての寛仁

さと、なによりも多量で透明度の高い感情の量が、薩人に好まれた。西郷の人望は藩父の島津久光をはる

かに凌ぎ、ついには久光の意思とは無関係な方向に藩をひきずり、薩軍と薩の貨財をつかい、長州を伴侶

にしつつ幕府を倒してしまった。一介の藩人にすぎない人物が、いかに雄藩の背景があつたとはいえ、や

はり尋常なことではない。

ただ、倒幕後の西郷は、みずから選んで形骸になってしまつた。

悲惨なことにその盛名だけは世をおおった。西郷は革命の象徴になり、曠(こう)世(せい)の英雄とされ

た。西郷は斉彬の弟子でありながら維新後の青写真をもたず、しかも幕末における充実した実像は、その

まま維新後の人気のなかで虚像になった。蓋世(がいせい)の虚像といってよかった。

中略

たとえば自分の作った「官」の正体のいかがわしさを廟堂に居ながら痛烈にわかっていたのはかれ一人であ

ったし、また官員の権力成立の阿呆らしさを官員の一人でありながら激しい自己嫌悪とともにわかっても

いた。やがてかれが、自分自身の無能さをふくめて何もかもに厭気がさし、征韓論のときは韓都で殺され

たいと口走り、それに破れると「官」の側で隠棲せず、もとの士族社会にもどって行った。

省略                                 

                                   「跳ぶが如く」後書きから