「世に棲む日日」は昭和46年5月から7月に文芸春秋に連載されました。文春文庫第一巻から第二巻の半ば
までが幕末長州藩の思想家吉田松陰の生涯について、第二巻の後半から第四巻までがその後継者である高
杉晋作の生涯が描かれています。倒幕への主動力となった長州藩の思想的原点に立つ吉田松陰と奇兵隊と
いう農民を主体とした軍事組織を創設して、それまでの武士を中心とした体制を崩壊させた高杉晋作が生
き生きと描かれており、司馬さんはこの小説で明治維新の本質と長州人の特異性について熱っぽく語って
います。
◎わたしと「世に棲む日日」
わたしは幼い頃「吉田松陰」という名の響きに言い知れぬ恐怖というか怖さみたいな感覚をずっといだい
ていました。それはなんというか明治維新というものがよく分からない子供の頃であり、吉田松陰という
人物が反体制者、危険人物、危険思想者、徳川幕府に抵抗して処刑された人物等々の印象を持っていまし
た。
暗黒史観という言葉があります。歴史の一時期を暗黒時代として捉える考え方です。その時代は権力者の
時代であり、一般民衆にとっては時の権力者に財産も生き方もなにもかも、人生そのものが搾取され、夢
も希望もない時代のことです。日本では戦前までの時代が暗黒時代といわれた時期がありました。とりわ
け明治時代は薩長の藩閥政治の時代であり、地方、特に農民たちが虐げられる暗黒時代といわれました。
これは民主国家を建設しようとするGHQの意向による戦後教育が戦前の時代を暗黒時代とした見方もあ
りました。いずれにしても戦後教育を受けたわたしはその影響もあったのでしょう。明治大正時代とその
直近の幕末は暗い時代という印象が強くあり、その印象の中で吉田松陰を捉えていたのです。
司馬さんはその暗黒史観を否定する歴史小説を次から次と発表しました。今まで暗黒時代といわれていた
時代を他の時代よりも素晴らしい時代として小説の中に描いたのです。特に「坂の上の雲」などは明治時
代に生きた人々が生き生きと描かれています。
この「世に棲む日日」という小説も「吉田松陰」や「高杉晋作」という明るいひたむきな若者が縦横無尽に
活躍しています。どんなことにもへこたれず、行動力をもって時代の嵐を乗り越えていきます。こういう
幕末群像を描いたのは司馬さんが最初の作家ではないでしょうか。読んでみて心が明るくなりすっきりと
した気持ちになれる小説です。