れを示している。歴史の出来事を思うとき、かつては日本の暦は太陰暦であり、また時間の測り方や町の風景も
間池田屋に居て斬殺されていたら、その後の日本の歴史は変わっていたかもしれない。そう考えるとこの距離は
けることはなかった。それはいま動けば長州藩邸だけで数千の幕兵と戦わねばならないとの冷静な判断であっ
ながら、ひた走りに走り、藩邸の門を叩き急を告げたが、不運にも藩邸には戦うに足りるほどの者がいなかっ
屋内に入り、土間で遭遇した沖田総司に右袈裟一刀で斬り倒され絶命したという。
称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。水深は数十センチメートル程度と浅く、物流には底が平らで喫
水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられた。 二条から四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換
をするための「船入」が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られた(現在は、史跡指定されている「一之
船入」を除きすべて埋められている)現在その史跡には、高瀬舟が常時係留されていて、往時を偲ぶようになっ
ている。