京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

京都三条大橋界隈の春その3




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河原町御池の北東角に建つ京都ホテルオークラ。そこにはかつて長州藩の藩邸があり、桂小五郎銅像がそ

れを示している。歴史の出来事を思うとき、かつては日本の暦は太陰暦であり、また時間の測り方や町の風景も

今と違う。だが地理的な距離感は今と変わらない。あの池田屋騒動の夜、桂小五郎は定刻に池田屋に行ったが

まだ誰も来ていないためいったん三条木屋町池田屋から河原町御池の長州藩邸に戻った。その間に池田屋

騒動は勃発した。池田屋長州藩邸の距離は400メートル、徒歩5分の距離にすぎない。もし桂小五郎がこの時

池田屋に居て斬殺されていたら、その後の日本の歴史は変わっていたかもしれない。そう考えるとこの距離は

とてつもなく長い距離のようにも思える。因みに桂小五郎池田屋の変事を知っても仲間を助けるために駆けつ

けることはなかった。それはいま動けば長州藩邸だけで数千の幕兵と戦わねばならないとの冷静な判断であっ

た。一方池田屋に居た長州人吉田稔麿はこの時24歳であった。吉田松陰の愛弟子で、松陰は桂小五郎よりむし

吉田稔麿を買っていたという。吉田松陰はさすがにこの急場でも十分に回転できる思慮を持っていた。河原町

長州藩邸はここから近い。まず援兵を求めようと思い、新撰組の近藤、永倉の白刃の間をくぐって負傷を負い

ながら、ひた走りに走り、藩邸の門を叩き急を告げたが、不運にも藩邸には戦うに足りるほどの者がいなかっ

た。吉田松陰はやむなく手槍一本を借り、全身血だらけになりながら、同志が苦闘する池田屋に引き返し、再び

屋内に入り、土間で遭遇した沖田総司に右袈裟一刀で斬り倒され絶命したという。

吉田稔麿のそのときの心に重いを馳せながら、明治天皇行幸所であった織工場跡にある日銀京都支店の前を

通り、島津製作所創業地の前を通り、再び高瀬川の河畔に出た。

高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用

に開削された運河である。 開削から大正9年1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名

称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。水深は数十センチメートル程度と浅く、物流には底が平らで喫

水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられた。 二条から四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換

をするための「船入」が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られた(現在は、史跡指定されている「一之

船入」を除きすべて埋められている)現在その史跡には、高瀬舟が常時係留されていて、往時を偲ぶようになっ

ている。