京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

萩 桂小五郎(木戸孝允)誕生地

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吉田松陰墓所からまだ農村の雰囲気の残る坂道を下り、松本川に架かった松本大橋を渡って萩市内に入り、

呉服町2丁目にある木戸 孝允 (桂 小五郎)の誕生地を訪れた。

木戸 孝允 / 桂 小五郎(天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の武士(長

藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。吉田松陰の教えを受け、藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の

中心人物となり、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁政務座の最高責任者とし

て活躍する。特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続け

た。維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続け

ていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭

による参議内閣制を整えた。海外視察も行い、帰朝後は、かねてから建言していた憲法三権分立国家の早急

な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の

士族授産を推進する。長州藩主・毛利敬親明治天皇から厚く信頼された。

だが急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあって、心身を害するほど精神

的苦悩が絶えず、西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となり、夢うつつの中でも西郷隆盛

叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取ったという。