「峠」は昭和41年1月から昭和43年5月まで毎日新聞に連載されました。最後の将軍徳川慶喜は大政奉還、
薩長を主とする官軍は江戸へ、会津藩を中心とする佐幕派は敗走。そんな状況の中で越後長岡藩の家老で
あった河井継之助は徳川幕府にも倒幕派にも属さず永世武装中立国をめざして長岡藩を守ろうと奔走しま
すが、結局戊辰戦争最大の激戦となった北越戦争で長岡藩は敗れることとなります。
◎わたしと「峠」
地元新潟県の長岡市では河井継之助の評価は大きく分かれています。すなわち河井継之助は自己の理想を
追い求めた結果長岡藩を滅亡に追い込んでしまった張本人という評価と河井継之助の存在が長岡藩という
小藩を維新史に名を残す雄藩にしたとの評価です。司馬さんは小説の中で以下のように書いています。
-継之助のいう「秘策」というのは、わずか7万5千石の長岡藩、武装独立しつつ官軍でもなく会津藩で
もなく、ないばかりか、その調停を買って出ようというのである。(以下省略)
-きかざれば、会津であれ官軍であれ、討つ。
というのである。いやそれだけでなく継之助のことばがつづく。
「それによって天下に何が正義であるか知らしめるのだ。これによって義を天下にとなえ、天下の耳目を
ひきつけ、人心を吸収し、これによってこんにちの混乱を正道にもどす。鉚(りゅう)、それが、長岡藩の
策だ」
(めだかのねごと!)
としか言いようがない。 (峠から)
また司馬さんはあとがきにこうも書いています。
-継之助が藩政を担当したときには、皮肉にも京都で将軍慶喜が政権を返上してしまったあとであり、こ
のためおわただしく藩政改革をしたあと、かれの能力は、かれ自信が年少のころ思ってもいなかったであ
ろう戦争の指導に集中せざるをえなかった。
ここで官軍に降伏する手もあるだろう。降伏すれば藩は保たれ、それによってかれの政治的理想を遂
げることができたかもしれない。
が、継之助はそれを選ばなかった。ためらいもなく正義を選んだ。つまり「いかに藩をよくするか」
という、そのことの理想と方法の追求についやしたかれの江戸期儒教徒としての半生の道はここで一
挙に揚棄され「いかに美しく生きるか」という武士道倫理的なものに転換し、それによって死んだ。
挫折ではなく、彼にあっても江戸期のサムライにあっても、これは疑うべからざる完成である。継之
助は、つねに完全なものをのぞむ性格であったらしい。(「峠」あとがきから)
司馬さんはいつの時代にも生きるいさぎよい漢(おとこ)に惹かれました。「燃えよ剣」の土方歳三、「竜
馬がゆく」の坂本竜馬のような生き方です。武士としての意地と誇りそして「名こそ惜しけれ」の言葉に
凝縮された日本男子の、いさぎよさにかけた人々に常にやさしい眼差しをむける司馬さんはこの河井継之
助の生き方にも温かい愛情をそそいでいます。