司馬遼太郎の小説に「王城の護衛者」という小説がある。
藩主である正之は謹直な性格の男であり、三代将軍の実弟にもかかわらずよく仕えたので家光のこの人物を愛
し、臨終のとき正之一人を病床に呼び「宗家を頼む」といって死んだ。このときの感動で正之は15箇条からなる
家訓を制定したのであった。その第一条に「わが子孫たる者は将軍に対し一途に忠勤をはげめ。他の大名の例
をもってわが家を考えてはならない。もしわしの子孫で二心を抱くような者があればそれはわしの子孫ではな
い。家来たちはそのような者に服従してはならない」というようなことを書き残した。この時代の大名の家訓の中
でこれほど烈しく説きこんだ例はない。正之は家康の血統の中ではもっともすぐれた頭脳と政治能力を持ってい
の正之の遺訓、言行が、幕末までこの藩の藩是となったのである。その八世容(かた)敬(たか)に子供がなかった
ため縁戚にあたる美濃高須の松平家から養子をもらいうけ、嗣子とした。これが九世容(かた)保(もり)である。
幕末、京都は尊攘浪士の暗躍で無政府状態であった。幕府の力も弱まってきており、所司代や京都奉行所では
幕末、京都は尊攘浪士の暗躍で無政府状態であった。幕府の力も弱まってきており、所司代や京都奉行所では
ひろうようなそんな役目に家臣は猛反対したが、容保は家訓を守って家臣を説得して京都に赴いたのである。そ
武士としての生き方に司馬さんは大きく心を動かされたのであろう。
松平家の御当主からお礼の電話をいただいことがだれに読んでもらったよりもうれしかったと書いている。さらに
司馬さんは、この作品は先年、京の黒谷の丘にのぼり、そこで枯草にまみれながら散乱している会津藩士の墓
石群をみたとき書こうとおもったとも書いている。会津藩に心寄せる司馬さんの温かいやさしさが胸を打つ。
なお6枚目遠景写真のクレーン背景の手前の山が白虎隊士自刃で有名な飯盛山である。