京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

会津若松城(鶴ヶ城)その4

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天守閣から眺めた会津若松市の眺めは実に美しい。

司馬遼太郎の小説に「王城の護衛者」という小説がある。

14代将軍徳川家茂の信頼厚かった京都守護職会津藩主松平容(かた)保(もり)の、守護職就任から薩長に敗れ

て15代将軍徳川慶喜とともに江戸に逃れ、最後に会津で武士としての意地を貫き通すまでの激動の半生を骨っ

ぽく描いた小説である。

会津松平家の藩祖は徳川二代将軍徳川秀忠が侍女に産ませた子であり、三代将軍家光の弟にあたる。名を正

之といい、信州高遠の保科正光に預けられ保科正之として育てられた。父秀忠と親子の対面をしたのは出生後

18年目の寛永6年でその三年後に秀忠は亡くなった。秀忠の死後寛永20年になってようやく大領を貰い会津23

万石を領し若松城主となった。生後23年目にようやく二代将軍の落胤らしい待遇をうけたことになる。この初代

藩主である正之は謹直な性格の男であり、三代将軍の実弟にもかかわらずよく仕えたので家光のこの人物を愛

し、臨終のとき正之一人を病床に呼び「宗家を頼む」といって死んだ。このときの感動で正之は15箇条からなる

家訓を制定したのであった。その第一条に「わが子孫たる者は将軍に対し一途に忠勤をはげめ。他の大名の例

をもってわが家を考えてはならない。もしわしの子孫で二心を抱くような者があればそれはわしの子孫ではな

い。家来たちはそのような者に服従してはならない」というようなことを書き残した。この時代の大名の家訓の中

でこれほど烈しく説きこんだ例はない。正之は家康の血統の中ではもっともすぐれた頭脳と政治能力を持ってい

た。藩政を独特な政治学で整え、藩士を教育し、好学と尚武の藩風を作り上げ、寛文12年62才で亡くなった。こ

の正之の遺訓、言行が、幕末までこの藩の藩是となったのである。その八世容(かた)敬(たか)に子供がなかった

ため縁戚にあたる美濃高須の松平家から養子をもらいうけ、嗣子とした。これが九世容(かた)保(もり)である。

幕末、京都は尊攘浪士の暗躍で無政府状態であった。幕府の力も弱まってきており、所司代や京都奉行所では

取締りが出来なくなっていた。そんな窮状を打開するため幕府は松平容保京都守護職を命じた。火中の栗を

ひろうようなそんな役目に家臣は猛反対したが、容保は家訓を守って家臣を説得して京都に赴いたのである。そ

の結果会津お預りの新撰組の活躍もあり京都の治安は安定した。しかし時代の流れは倒幕に大きく傾き、結局

鳥羽伏見の戦いで幕軍は敗れ容保は江戸に逃れたのであった。15代将軍慶喜は朝廷に対する逆賊の汚名を

恐れ謹慎したが、容保は会津に戻り、討幕軍に対して最後の一戦に臨んだ。白虎隊の活躍もあったが結局会津

は敗れ若松城を開城した。本来ならば徳川慶喜がかぶるべき汚名を容保が一身にかぶった結果、明治になって

会津藩は不毛の地であった陸奥斗南藩として移住させられ辛酸をなめたのである。幕末の時代多くの藩が薩

長を中心とした討幕側になだれをうったようについた中で会津藩だけが最後まで徳川幕府を守ろうとした容保の

武士としての生き方に司馬さんは大きく心を動かされたのであろう。

司馬さんはこの本の後書きで、この本を書いた直後、会津の人々から多くの手紙をいただいたが、とりわけ会津

松平家の御当主からお礼の電話をいただいことがだれに読んでもらったよりもうれしかったと書いている。さらに

司馬さんは、この作品は先年、京の黒谷の丘にのぼり、そこで枯草にまみれながら散乱している会津藩士の墓

石群をみたとき書こうとおもったとも書いている。会津藩に心寄せる司馬さんの温かいやさしさが胸を打つ。   

なお6枚目遠景写真のクレーン背景の手前の山が白虎隊士自刃で有名な飯盛山である。