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愛読書11 「覇王の家」

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「覇王の家」は昭和45年1月から翌年9月まで小説新潮に連載されました。徳川300年、戦国時代の争乱を平

らげ、徳川幕府という長期政権「覇王の家」の礎を築きあげていった徳川家康の生涯を描いた小説です。

◎わたしと「覇王の家」

織田信長豊臣秀吉そして徳川家康、この日本歴史に登場する三人の英傑の三者三様の性格は常に比較さ

れます。そのよい例が織田信長の「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」、豊臣秀吉の「鳴かぬなら鳴か

せてみようホトトギス」、徳川家康の「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」です。司馬さんは徳川家

康の実像を探り日本人の民族性のなぞに迫ります。もし織田信長の作った政権が300年続いていたら日本

人の民族性はずいぶん今と違っていたものになっていたであろうし、豊臣秀吉も同様のことが言えます。

徳川家康の作った政権が300年も続いたことから今日の日本人の民族性というか特質が醸成されてきたと

いうことが出来ると司馬さんは言います。日本人は島国の単一民族であることから他国との交流について

は苦手であるとよく言われます。しかし徳川時代以前の日本は他国との交流も活発であったし、他国との

折衝ごともいまのようなことはなかったのです。それは徳川幕府が定めた鎖国政策がその後の日本の孤立

化を招いたとも言えます。300年の鎖国の間に日本人は独りよがりの性格を持つようになり、また欧米諸

国に対する恐れと卑屈な心、またアジアの国々に対する優越感、蔑視等の性格を持つようになったので

す。

徳川家康は信長、秀吉と違って性格が保守的であったこと、また長く政権を維持するためにはどうすれば

よいか、信長、秀吉の末路を見て分かったのでしょう。家康は新規の技術開発や外国からの新しい学問、

知識の流入を抑え現状を維持することに心をくだきました。新しい技術や知識は学ぶ者に革新の心を芽生

えさせます。また幕府の組織の中で一ヶ所に責任や権力が集中しないようにしました。一ヶ所に集中する

とそこのほころびで組織全体がだめになることを恐れたのです。老中や奉行所や役職の輪番制がそうで

す。ですから権力や責任の所在といったものがあいまいなものになり、その体質は明治政府の官僚組織に

濃厚に引き継がれました。物事を明快に断ぜず、あいまいにすることは日本人の美徳とさえ今でも言われ

ます。物事を決める場合でも事前の根回しを優先し、問題が発生しても責任はあいまいなものとなって誰

も責任をとることはありません。なんとなく連帯責任となるわけです。東京裁判では大東亜戦争の開戦を

決定した責任者は誰かということで審理が進みましたが、結局明快な答えが出ることはなかったのです。

いま日本の外交は重大な危機に陥っています。徳川300年以来醸成されてきた日本人の特異な民族性でも

って日本(特に官僚、政治家の日本政府)は諸外国に誤解され続けています。明快に対応することもなく誤

りを率直に認めることもなく、言うべきことを明快に言うこともなく、なんとなく不気味な奇妙な民族と

思われ続けています。もし信長の政権が300年つづいていればこんな不甲斐ない日本になっていなかった

かもしれません。もちろんすでに日本はなくなっていたかもしれませんが。

こんなことを思いながらこの本を読むとますます面白くなります。

司馬さんは本の中でこんなことを書いています。

三河衆一人に尾張衆三人。

ということばすらあったほどで、尾張から大軍が侵入してくるときも、三河岡崎衆はつねに少数で奮戦

し、この小城をよくもちこたえた。守戦でのつよさではかれらは天下無類というふしぎな小集団であっ

た。ついでながらこの小集団の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、

300年間日本を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになったの

は、奇妙というほかない。                          
 
                                       「覇王の家」から