京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

天下布武 夢の跡その1

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桜に誘われて安土あたりにきてみた。過去何度となく訪ねようとしたが場所が分からずにいた「セミナリヨ址」を

見付けるためであった。カーナビで調べてようよう小さな路地の奥にある「セミナリヨ址」にたどり着けることが出

来た。それは思ったよりも広くて美しく整備され、セミナリオ史跡公園となっていた。セミナリヨ跡は1581年(天正9

年)にイタリア人宣教師オルガンチーノによって創建された目本最初のキリシタン神学校の跡地で「本能寺の変

の後に安土城とともに焼失した。現在では推定地の一部が安土城の外堀沿いに佇む公園として整備されている

公園の石に貼られた銅版には以下の文章が書かれている。

かつてセミナリヨカトリック小神学校)のあったこの土地が、織田信長より教会建設用地として下附されたのは、

一五八〇年(天正八年)五月二十一日のことであった。これによって、イエズス会のオルガンチーノ神父は直ち

高山右近をはじめ近在の信者たちの熱烈な援助を受けて、ここに三階建の堂々たる住院を完成したが、その

後間もなくこの建物を用いてセミナリヨが開校された。一階には茶室の付いた座敷があり、二階は神父の居室、

三階は教室と生徒の寮として使用された。授業科目には、日本文学、キリスト教理、ラテン語、修辞学、音楽など

があり、後に日本二十六聖人の一人となったパウロ三木をはじめ、諸国から集まった二十数名の少年たちが寄

宿して勉学に励んでいた。信長の特別の許可により、安土城と同じ水色の瓦で屋根を葺いたこの豪壮なセミナリ

ヨには、連日多数の貴人が訪れたが、信長自身もしばしばここに立ち寄り、ときに少年の演奏するオルガンに聞

きとれていたと伝えられる。かくして、安土はこのセミナリヨにより、日本におけるキリスト教の一大中心地となる

かにみえた。しかし、一五八二年六月信長が本能寺の変に死するや事態は一変し、セミナリヨの壮麗な建物も

明智勢の侵略により廃墟と化した。やむなくセミナリヨは京都へ、さらに高槻、大阪へと移り、一五八七年秀吉の

禁教令に際しては肥前国長崎県)有馬のセミナリヨに合併されたが、それも遂には一六一四年徳川の大追放

令のもとで廃校となり、その苦難の歴史を閉じることになった。以上

また公園に建つ記念碑には以下の通り刻まれている。

一五八〇年五月オルガンチノ神父が信長から土地を下付されて開校したセミナリヨ(神学校)は、日本近代教育

の幕あけにふさわしい充実した教育内容と、三階建の豪華壮麗な大建築とで、遠く海外にも知られていた。この

セミナリヨも、やがて本能寺の変に続く動乱のために焼失し、安土にあったのは僅か二カ年余に過ぎなかった

が、その間日本の精神的指導者となるべき幾多の優秀な人材が育成された、阿波の士族三木半太夫の子、三

パウロもその一人である。彼は一五六四年頃生まれ、幼少時に授洗、セミナリヨを卒業後一五八六年イエズ

ス会に入り、布教活動に献身した。しかし一五九六年十二月秀吉のキリシタン弾圧にともなって大坂で逮捕さ

れ、翌年一月他の二十五名の信者とともに陸路九州へ護送されて、二月五日長崎西坂の丘で殉教した。一八

六二年法王ピオ九世は彼ら二十六人の遺徳を讃えて全員を聖人の位にあげ、ここに三木パウロの名は日本二

十六聖人の一人として、広く世界の人々の尊敬を集めることとなった。 今日三木パウロの遺骨をこの地に迎え

るにあたってその記念としてこれを建立するものである。以上

織田信長イエズス会を支援したのは、深い知識欲によるものだったのか、あるいは日本を統一国家にする天

下布武のためだったのか、あるいは将来海外に進出するためのものだったのかはよくわからないが、いずれに

しても信長が最も充実した時期に財力を傾けて作られたセミナリヨカトリック小神学校)には違いない。セミナリ

ヨの建っていたとされる推定地は安土城のあった安土山から西南500メートルほどの距離にあり、安土城下の近

郊に造られたセミナリヨ址はまさに信長野望の夢の跡であり、この日公園に植わっている桜のつぼみは膨らみ

始め、やや西に傾いた春の陽が公園を温かく包んでいた。