桜に誘われて安土あたりにきてみた。過去何度となく訪ねようとしたが場所が分からずにいた「セミナリヨ址」を
見付けるためであった。カーナビで調べてようよう小さな路地の奥にある「セミナリヨ址」にたどり着けることが出
公園の石に貼られた銅版には以下の文章が書かれている。
に高山右近をはじめ近在の信者たちの熱烈な援助を受けて、ここに三階建の堂々たる住院を完成したが、その
後間もなくこの建物を用いてセミナリヨが開校された。一階には茶室の付いた座敷があり、二階は神父の居室、
ヨには、連日多数の貴人が訪れたが、信長自身もしばしばここに立ち寄り、ときに少年の演奏するオルガンに聞
令のもとで廃校となり、その苦難の歴史を閉じることになった。以上
また公園に建つ記念碑には以下の通り刻まれている。
一五八〇年五月オルガンチノ神父が信長から土地を下付されて開校したセミナリヨ(神学校)は、日本近代教育
の幕あけにふさわしい充実した教育内容と、三階建の豪華壮麗な大建築とで、遠く海外にも知られていた。この
が、その間日本の精神的指導者となるべき幾多の優秀な人材が育成された、阿波の士族三木半太夫の子、三
ス会に入り、布教活動に献身した。しかし一五九六年十二月秀吉のキリシタン弾圧にともなって大坂で逮捕さ
れ、翌年一月他の二十五名の信者とともに陸路九州へ護送されて、二月五日長崎西坂の丘で殉教した。一八
六二年法王ピオ九世は彼ら二十六人の遺徳を讃えて全員を聖人の位にあげ、ここに三木パウロの名は日本二
十六聖人の一人として、広く世界の人々の尊敬を集めることとなった。 今日三木パウロの遺骨をこの地に迎え
るにあたってその記念としてこれを建立するものである。以上
下布武のためだったのか、あるいは将来海外に進出するためのものだったのかはよくわからないが、いずれに
郊に造られたセミナリヨ址はまさに信長野望の夢の跡であり、この日公園に植わっている桜のつぼみは膨らみ
始め、やや西に傾いた春の陽が公園を温かく包んでいた。