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愛読書31「功名ヶ辻」

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功名が辻」は、1963年(昭和38年)10月から1965年(昭和40年)1月にかけ、各地方紙に連載されました。題名

功名が辻」の辻は「十字路、交差点、路上」という意味を指します。

わたしと「功名が辻

天下へ突き進む織田信長の軍勢の中に、「ぼろぼろ伊右衛門」と呼ばれる山内伊右衛門一豊がいました。岩倉

織田氏の家臣であった父を亡くし、仇敵である信長に仕官したそんな一豊のもとに、千代という美しい娘が嫁い

できます。婚礼の夜、千代の夢は伊右衛門が一国一城の主となることを約束し、木下藤吉郎秀吉の引きもあっ

て、負傷や苦戦を重ねつつも、千代の励ましもあって少しずつ出世の道を上って行きます。信長の安土城が築

かれつつあったある日のこと、京での馬ぞろえを前に、城下で駿馬を売る商人を見かけた一豊は、一旦は諦め

たものの、話を聞いた千代は秘蔵の小判を差し出してその馬を手に入れるよう促します。そんな自分に妻が秘

密でへそくりを隠していた上、金を一方的にあてがわれる事に一時憤慨しますが、千代の泣き落としにあって結

局金を受け取って馬を買い、その後の京都御馬揃えにて名声を博すもとになります。その後一豊は秀吉につい

て中国攻めに参加し、その間に明智光秀が本能寺で信長を討ちます。この知らせを聞いた秀吉は急いで毛利

方と和睦し、その後光秀打倒に走ります。一豊はその後の小牧・長久手の戦いの後、徳川家康と和睦し関白と

なった秀吉から近江長浜城を賜り、二万石の大名に出世します。その後秀吉が他界して家康が事実上の支配

者となります。同時に、石田三成の謀反の噂が駆け巡り、自重していた一豊も、旗幟を鮮明にせざるを得なくな

ります。動き出した家康は、一豊を始め、北政所派の大名を取り込んで対三成色を鮮明にして行き、小山評定

一豊は、他の大名同様に自らの城を家康に明け渡す決意を述べたことから評定は一挙に三成打倒に傾きま

す。慶長5年(1600年)915日(西暦16001021日)、ついに家康の東軍と三成の西軍は関ヶ原の戦いで相ま

みえます。当初は西軍有利でしたが、西軍の中から裏切りが出始め、足並みが揃わなくなってついには敗走し、

康は名実ともに天下を掌握することになります。戦後の大名の転封で、一豊は土佐国二十万石を与えられま

す。関ヶ原そのものではさほどの働きもなかったのですが、戦前に掛川城を明け渡したのを評価されての論功

行賞でした。しかし土佐は長曾我部氏の侍、それも一領具足と呼ばれる半農半兵の力が強く、長曾我部家を守

るために武力衝突も辞さない構えで、一豊は忍び同然で土佐入りし、城を改築し、城下を整える準備をしたので

した。一領具足に手を焼く一豊は徳川方から国主失格の烙印を押されるのを恐れるあまり、相撲大会と称して

有力な一領具足を種崎浜に集め、そこで一挙に騙し討ちにしたのでした(種崎事件)。これを機に国人の反抗は

沈静化します。無実の者も構わず粛清する一豊に千代は深く失望したのでした。

この小説は司馬さんの作品には珍しく、後に良妻賢母の見本ともなった、千代という女性を主人公の1人にした

作品となっていて、いままで何度も映画化、テレビドラマ化されており、山内一豊と千代の名前はすっかり有名に

なっていますが、「幕末」でも書いたように、一豊は徳川方から国主失格の烙印を押されるのを恐れるあまり長曾

我部氏の侍を騙し討ちしたことで、その後幕末まで長曾我部氏の元家臣(郷士)と山内一豊の家臣(上士)の激

しい対立が続き、その対立が討幕への大きなエネルギー、ウェーブとなってゆきます。もし一豊が長曾我部氏の

元家臣に対し、もう少し工夫した懐柔策をとっていたら、幕末の様相もまた違ったものになったかもしれません。