に収録されています。
◎私と「菜の花の沖」
をとりつつも、作者独自の歴史観による解説を折り込んだ構成を特徴としており、後期作品である本作は、近世
社会の社会経済や和船の設計・航海術をはじめ随所で思弁的に史論を述べつつ、後半で主人公が当事者とな
るゴローニン事件へ至る背景事情(日露関係史への知見)と共に、物語が進行する構成になっています。
司馬さんの回忌の名「菜の花忌」は、この小説に由来しています。
た。幼い頃から海に親しみ船を愛した嘉兵衛には、少年時代、近くの川に玩具の船を浮かべながら、潮の満干
を調べて大人達を驚かせたといった逸話が語り継がれています。22歳で兵庫(現・神戸市)に出た嘉兵衛は、大
坂(大阪)と江戸の間を航海する樽廻船(たるかいせん)の水主(かこ)となり、船乗りとしてのスタートを切りまし
た。やがて優秀な船乗りとなった嘉兵衛は、西廻り航路で交易する廻船問屋として海運業に乗り出します。28歳
で、当時国内最大級の千五百石積の船「辰悦丸(しんえつまる)」を建造し、まだ寂しい漁村にすぎなかった箱館
(函館)を商売の拠点としました。当時毛皮を求めて千島列島を南下してくるロシアとの国防対策を急ぐ幕府に協
力して、エトロフ島とクナシリ島間の航路を発見したり新たな漁場を開くなど、北方の開拓者として活躍します。
商を認めさせようと、本国の許可も得ず、露米会社船籍の船二隻に命じてエトロフ島の日本人部落を襲うといっ
た一連の蛮行事件を起こします。日本側が厳戒態勢を取る中、たまたま千島海域の地理を調査中であったロシ
ア皇帝艦のゴロヴニン艦長が、クナシリ島で水・食料の補給を得ようと、交渉のため上陸した途端、警備隊に捕
らえられるという事件がおこりました。艦長を失ったロシア船ディアナ号はその消息を聞き出そうと、偶然近くを通
りかかった嘉兵衛の船を捕らえ、嘉兵衛を配下五人と共にカムチャッカへ連行抑留します。 囚われの嘉兵衛と
副艦長リコルドは同じ部屋で寝起きし、「一冬中に二人だけの言葉をつくって」交渉、嘉兵衛はリコルドに、一連
の蛮行事件は、ロシア政府が許可も関知もしていないという証明書を日本側に提出するようにと説得、その言葉
を聞き入れたリコルドは嘉兵衛と共に日本に戻り、この両者の協力が遂にゴロヴニン釈放にいたる両国の和解
を成し遂げました。晩年は、故郷淡路島にもどり、港や道路の修築など、郷土のために力を尽くし、1827(文政
太郎がこよなく愛した人物で、「今でも世界のどんな舞台でも通用できる人」と称えています。