より、慶長7年(1602年)、山口市の国清寺の経蔵を移築したものという。輝元は、関ヶ原の戦いで家康に対抗し
た西軍の総大将。輝元が一切経蔵を山口から大津まで移築するには、相当の出費を要したはずで、そこにはそ
うせざるを得ない政治的な事情があったのではと推測されている。経蔵は1間四方の母屋を宝形造として頂点
に露盤・宝珠をのせ、母屋の周りに裳階(もこし)をつけ、ともに外観は二重の建物である。裳階の平面規模は正
面11,54m、側面13,06mで、母屋の前柱は大虹梁でうけて、輪蔵前の空間をひろくして、間隔をひろく配置)、詰
組の組物など禅宗様の形式を具備している。経堂の中には一切経をおさめた八角回転式の八角輪蔵(重文)が
ある。輪蔵とは回る書架という意味で高麗版の一切経が収められている。この輪蔵を回すとお経を読んだと同じ
御利益があるという。