られた豊臣家の一族を描く連作短編。「中央公論」1966年(昭和41年)9月号から1967年(昭和42年)7月号まで
連載されました。
わたしと「豊臣家の人々」
一話につき一人の人物を取り上げる一話完結形式の全9話からなる連作短編となっています。
第一話 殺生関白
実子に恵まれぬ秀吉は、その肉親縁者の中から多くの養子を迎えます。姉・おともの子の秀次もその一人であ
り、秀吉はこの甥を可愛がり、ゆくゆくは己の後継者にしようと目をかけますが、秀次は秀吉に似ずまったくの愚
物で諸事物事ができない人物です。到底天下の仕置をなせる男ではないと秀吉は落胆しますが、さりとて他に
代わりになる者もいません。ようやく生まれた嫡男・鶴松も夭折し、秀吉は秀次を正式に養嗣子にして関白の位
を譲ります。しかしそれでも秀次の素行は改まることはなく己の殺人嗜好を満たすために夜ごと夜陰に紛れて辻
斬りを愉しみ、市井には怨嗟の声がわき起こって「摂政関白」ならぬ「殺生関白」などという悪名が囁かれるよう
になります。やがて数々の不行状を知った秀吉は常軌を逸した振る舞いに驚愕し、折しも秀頼が生まれてその
存在が邪魔になっていたことから、秀次を断罪することを決めるのでした。
第二話 金中納言
秀吉の正室・北ノ政所は弟の家定に生まれた利発な赤子を気に入り、養子に貰い受けることを願い、秀吉も快く
迎えます。いずれは一角の人物になると秀吉夫婦は大きな期待をかけるものの、この男児は長ずるにつれて愚
鈍で矯騒な振る舞いばかりするようになり、元服して「秀秋」の名を得てからも容儀が改まらず、どうやら人並み
以下の器量であることがわかってきます。それでも秀吉は秀秋を可愛がり、与えた右衛門督の官位の唐名「金
吾将軍」から「金吾」と呼び、愛し続けるのでした。金吾秀秋はその後も年少の身に不相応な官位を与えられ続
けましたが、その栄達は中納言まで進んだ所で止まります。秀吉に実子の秀頼が生まれたためであり、途端に
秀秋は秀吉にとって実子を脅かす邪魔者となるのです。名族小早川氏の家督を継がせて厄介払いをしたもの
の、相変わらず秀秋には軽忽な振る舞いが絶えずいよいよこの不肖の養子を憎み始めます。そこに目をつけた
のが秀吉の死後の政変を見越した徳川家康でした。秀吉に疎まれた秀秋に接近して巧みにその心をつかみま
す。やがて秀吉が没し、天下は二分されて関ヶ原の戦いの火蓋が切られます。秀秋は西軍に属しながら事前に
家康に内応を約束して参陣するものの、西軍の提示してきた巨利に心がぐらつきその挙止を決めかねていまし
た。戦闘が過境に入ってからもその旗色は定まらず、業を煮やした家康が鉄砲を撃ちかけるや秀秋は慌てて東
軍に味方し、戦の趨勢は決まります。戦は東軍の勝利に終わり、天下の実権は徳川家に移ったのでした。秀秋
は最大の戦功者として大封を与えられますが、しかしその二年後にあっさりと没します。一時は秀吉の後継者と
まで目された養子は、豊臣家を潰すだけの役割を果たしてこの世を去るのでした。
第三話 宇喜多秀家
倒れ死の床につきますが、人質として織田家に差し出した息子の行く末を気にかけ、秀吉に養育を頼んで息を
引き取ります。直家の子は「秀家」と名づけられて秀吉の猶子となり、やがて織田家に代わって天下を取った豊
臣家の一員として育てられ、長じて秀麗な容貌を持ち心映えも涼やかな好青年に成長します。自身の卑しい出
自に劣等感を持つ秀吉は、秀頼が生まれて後も邪険にせずにこの貴公子然とした若者を可愛がり続けて大封
を与え、秀家もその愛情に応えて養父を篤く慕います。しかし貴族の公達としては申し分ないものの、秀家には
大名として最も重要な政治感覚が欠落していました。心もとなさを感じつつも秀吉は誰よりも忠誠心の強いこの
秀家を五大老の一人に任じ、幼い秀頼の保護を頼んで死んでゆきますが、秀家には天下政治の云々以前に自
身の家政すら上手く捌く器量もなかったのです。秀吉の死後、天下簒奪を目論んでいた家康は遺法を平然と
破って諸大名を自身のもとに引き寄せ、その野心を露わにし始めます。秀家としては石田三成ら反家康勢力とと
もにこれに対峙すべきでしたが、家中の派閥争いを押さえられずに家臣達が大坂で騒乱を起こしてしまい、すで
に関が原を想定していた家康はその不祥事につけ込んで処分を下し、宇喜多家の家人を三分の一に削ったの
です。百戦錬磨の老練政治家の前では、愚直なまでに豊臣家への忠節を果たすことしか頭にない若造などまっ
たく相手になりません。秀家は関ヶ原では西軍随一の大軍を率いて戦場へ出るものの、戦は始まる前から家康
の巧みな外交謀略によって決しており、西軍は無残に敗北して天下の実権は徳川家に移ったのでした。関ヶ原
名の誰よりも長く生き、秀頼も家康もとうにいなくなった四十年余りの後、この男は八十四歳で世を終えるのでし
た。
第四話 北の政所
明さは秀吉からも一目置かれ、人事をはじめとする政治問題の最良の相談相手ともなり、豊臣家の創建を大い
に助けます。その温和で闊達な人柄は多くの者達を惹きつけ豊臣家中の誰よりも慕われたものの、いささか郷
と吏僚派の対立といった面持ちにもなり、両派は事あるごとに衝突し、そして秀吉が死んだことでその対立に歯
止めがきかなくなり政情は関ヶ原へと動き始めますが、北ノ政所は彼女の膝下の者達に家康に従うよう言い含
めて影から家康を支え、天下の実権は徳川家に移ったのでした。その後大坂の陣を経て豊臣家は滅亡します
が、家康は自身に天下をもたらしてくれた北ノ政所を終生手篤く保護しました。彼女は秀吉とともに豊臣家という
作品を作り、夫の死を期に自らその根を断ち切ったのです。その行動には他人には渡さぬといった胆気が匂い
出、自身の行為に対しての悔恨のようなものがどうにも見られないのでした。
第五話 大和大納言
他の多くの身内と同様、貧農の境遇から引き上げられた秀吉の異父弟の秀長は、粗漏な者ばかりの秀吉の一
族の中で例外的に高い才覚を備えていました。独創性はないものの命ぜられたことは何でもそつなくこなし、そ
の仕事には落ち度というものがありません。さらにその人柄は温厚で篤実であり、弟として損な役回りを押しつ
けられることも多く武人の誉である戦での活躍の舞台もあまり与えられなかったのですが、不満を口にすること
はほとんどなく黙々と兄を補佐し続けました。野心というものをまるで持たずに静かに自分を支えてくれるこの弟
ほど秀吉にとってありがたい存在はなく、秀吉は秀長に対して誰よりも強い信頼を寄せたのでした。やがて生ま
れついての徳人といったその人柄は広く信望を集めるようになり、秀吉の累進に伴って舞い込むようになった無
数の陳情をうまく裁き、秀長は卓抜した吏才を見せるようになります。難治で有名な紀伊国の統治もよくこなし、
同じく難物で知られた大和国に移封された後は、こちらも見事に統治します。秀吉の見る所、秀長は天性の調整
家でした。大納言の官位を朝廷から賜り「大和大納言」と尊称された後も数々の政治問題をうまく処理し、「豊臣
家は大納言でもっている」とまで巷間称えられるようになります。しかし小田原征伐の直前に病に倒れ、ほどなく
秀長は息を引き取ります。さながら秀吉の影のように生きた弟は、兄に先立って世を去ったのでした。後年、関ヶ
原の戦い前夜に豊臣家が分裂した際には、古株の家臣たちは「かの卿が生きておわせば」と早すぎるその死を
惜しんだといいます。
第六話 駿河御前
秀吉の末の妹の旭は、秀吉が織田家中で頭角を現し北近江の大名に任じられた際に百姓の境遇から引き上げ
られます。日に灼け土まみれで野良仕事をしていた旭と夫は共々強引に秀吉の下に引き寄せられてそれまで夢
にも思わなかった御殿生活を始めることとなりますが、旭の夫は元来牛馬のようにおとなしい男で侍としてやっ
てゆける才覚などなく、やがて環境の変化に耐えられずに衰弱して死ぬのでした。旭は兄のとりなしで尾張の名
頃の方がどれほど気が楽だったかと泣くような思いで每日を過ごしておりました。やがて本能寺の変を経て信長
の後継者としての地位を固めた秀吉は天下取りに乗り出しますが、その最大の障害は東海を領する家康でし
た。その存在があるかぎり四国や九州の平定に乗り出すことはできず、秀吉としては何としてでも家康を自身の
膝下に組み込まなければならなかったのです。小牧・長久手の戦いの後、秀吉は得意の外交術を使って籠絡し
ようとするものの、自身の外交的優位を知悉する家康は一向に恭順の姿勢を見せません。困じ果てた秀吉は、
旭を無理やり離縁させて正室のいない家康に嫁がせ、義兄弟になることで家康を幕下に取り込むという奇策を
考えました。さらに母の大政所をも人質に出すと申し出るに及んでついに家康も折れ、秀吉の幕下に下ったので
ようになります。しかしそれも長くは続かず、数年後母の見舞いに上洛した際に病に罹り、そのまま回復すること
なく息を引き取ったのでした。その死後、秀吉はこの薄幸の妹を哀れみ、供養塔を建てるなどして慰霊しました。
生前の旭は己の境遇について何も語り残していません。兄の立身に釣られて翻弄され続けたこの女性は、和歌
の一首すら遺さず歴史の中で永遠の沈黙を保っているのです。
第七話 結城秀康
家康が気まぐれで手をつけた侍女から生まれた次男・於義丸は、出生後も長く認知すらされず、不遇な境遇の
中で成長します。家康にしてみれば望んで生まれた子ではないため愛情などわかず、小牧・長久手の戦いの後
に秀吉に恭順すると、人質を欲した秀吉の下にまるで放り捨てるように送り届けるのでした。於義丸は「秀康」の
名を与えられて秀吉の養子の一人として養育されますが、長ずるに連れて余人に稀な威厳が備わり、戦場に出
れば三軍の指揮すら務まりそうな剽悍な若者に育っていきます。秀吉は秀康を可愛がり、やがて北関東の名族
結城氏の名代を継がせることにします。折しも新しく入封した関八州の防衛上都合が良く、家康も諸手を上げて
賛意を示しすが、その心内では秀康を恐れるのでした。嫡男の信康が死んでいる以上は徳川家の相続者は本
来秀康であるべきでしたが、世子はすでに弟の秀忠に決まっており、秀康が家を継ぐことはできません。無論、
養子といっても豊臣家の家督を継ぐことは当然できないのです。その生い立ちのためか自尊心が強く育ち、自身
への無礼は決して許さず年少の身で家来を手討ちにしたこともある秀康がこのような己の境涯に満足していると
はとても思えず、家康はその自尊心を傷つけぬよう秀康と会う度に下にも置かぬ丁重な扱いをします。その後秀
吉が没し、家康は天下の簒奪を謀って政情を関ヶ原へと誘導し始めます。世子の秀忠以上の手柄を立てさせて
は家政の乱れを招くという家康の判断から秀康は後詰に回され、かねがね剛勇と噂されたその武勇を奮う機会
は訪れなかったのでした。家康は秀康を恐れ続けます。幼少の砌に愛情をかけてやることもなく捨ておいたこと
を怨み、いつか秀忠を害して徳川の家を奪うつもりではないかと常に危惧したのでした。巷間でもそのように見ら
れ、家康が大坂を攻める際には秀康が義弟の秀頼に味方するなどという流言まで流れるほどでした。。しかしそ
の機会はついに巡ってくることはなく、大坂の陣が勃発する前に秀康は病に斃れて死にます。何事かなすであろ
うと誰もが畏怖したこの男は、結局何をなすこともなく世を去ったのでした。
第八話 八条宮
正親町天皇の皇孫・六ノ宮は幼い頃から和学の道で飛び抜けた才能を見せ、その豊潤な才は「神童」とまで謳
われました。やがて宮は信長から政権を引き継いだ秀吉が、唐天竺にもない途方もない巨城・大坂城を築いたと
いう話を耳にします。同時に城の一画にささやかな茶室を設けて茶道楽を愉しんでいるとも聞き、巨城の片隅で
二畳ほどの広さしかないという茶室を営むとはいかなる風情だろうと宮は大いに歓心をそそられます。しばしの
後、秀吉は黄金づくめの茶室を携行して御所に現れ、宮の度肝を抜きます。清明さを旨とする公家の美とまった
く異質な絢爛を極める美意識に触れた宮は、その闊達な人柄も相まって秀吉に強く魅了されるのでした。秀吉も
宮を気に入り、かねてより皇族を豊臣家に迎えたいと望んでいたことからすぐさま奏請し、宮は秀吉の猶子に迎
宮は再び皇族に復帰することとなります。秀吉は宮への餞として八条川原に屋敷を送り、「八条宮」という新しい
宮家を創設させることにしました。秀吉は多忙であまり造営に関われなかったのですが、宮はこれをきっかけに
建築に関心を持つようになります。ところが秀吉が死に、関が原を経て天下の覇権は家康が握ることとなりま
す。家康は琴棋書画にまったく関心のない男で、宮中の典雅もまるで理解しないどころか天子を尊崇もせず法
度を押しつけて公家社会をがんじがらめに縛り上げ、宮中はまるで陽が落ちたかのように寂しくなるのでした。
やがて大坂の陣で豊臣家が滅亡し、秀吉の時代が終わったことを痛感した宮は傷心の身を京南郊の桂へと移
し、かつて秀吉と屋敷を作った思い出を偲びながら後の桂離宮となる宮殿の造営を始めます。宮の表現によれ
ば「瓜畑のかろき茶屋」であるものの、その美しさは広く喧伝されました。その後宮は五十歳で薨じますが、折し
桂御所における宮のそれとは、さながら美の対極のように取り沙汰されることとなるのでした。
第九話 淀殿・その子
幼少期に二度も落城を体験し、その地獄絵を目に焼きつけながらも二度とも生き延びた信長の姪・茶々。しかし
数奇な運命はそれで終わらず、不思議な巡り合わせの後に彼女は二度とも攻城軍の指揮をとった秀吉の側室
となります。秀吉は北ノ政所や他の側室たちに気を使いながらも茶々を寵愛するようになり、その寵愛ぶりはた
らに嫡子の秀頼を産むことで豊臣家中で確固たる地位を築くこととなり、折しも尾張出身者と近江出身者の対立
が形成されるようになります。やがて秀吉が死んで両閥の軋轢は頂点に達し、豊臣家は二分されることになりま
す。かねてより天下簒奪の機会を窺っていた家康は混乱に乗じて関ヶ原の戦いを誘引させ、政治的詐術で天下
の実権を鮮やかに掠め取ったのでした。諸事において信長の姪という己の血の尊貴さと、妄愛する秀頼を中心
に据えてしか物事を思考することができず、卓抜した智謀で乱世を渡ってきた家康にとっては所詮政治の現実を
理解できぬ彼女など相手ではなかったのです。やがて政情は大坂の陣へと雪崩れ込みついに最終決戦が始ま
持ち指揮系統を壟断する有様であり、兵達の士気を大いにくじいたのでした。果ては詐略ともいえぬ子供だまし
の手段で濠を埋め立てられ、かつて東洋一の大城塞と謳われた大坂城は無残にも裸城にされてしまいます。追
い詰められた末、淀殿は愛息共々に果てるのでした。秀頼には辞世も何もありません。戦の最中、豊臣方の将
兵達は再三その出馬を乞いますが、その度に淀殿の頑なな反対にあって結局実現しなかったのでした。秀頼は
その短い生涯のうちにその人柄や心壊を推し量る何ものをも遺していません。おそらくはその死も介添えが手を
貸し、是非もなく死に至らしめたに違いないと思われます。
このようにして、この家は滅んだのです。豊臣一族の栄華は、さながら秀吉という天才が産んだひとひらの幻影
のように現れ、消えていったといっていいでしょう。
本来ならばまったく別の人生を用意されていたはずの人々が、秀吉という強烈な存在を身内に抱えたことで人生
を変えられ、思わぬことで得た富と権勢によって翻弄される悲劇を描いています。
いないうちにあわただしく貴族となった」ために様々なひずみが生じ、「その血族、姻族、そして養子たちはこのに
わかな境涯の変化のなかで、愚鈍な者は愚鈍なりに利口な者は利口なりに安息がなく、平静ではいられず、炙
られる者のようにつねに狂燥し、ときには圧しつぶされた」と評しています。