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愛読書12「王城の護衛者」

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「王城の護衛者」は昭和40年4月別冊文藝春秋に掲載されました。14代将軍徳川家茂の信頼厚かった京都守

護職会津藩主松平容(かた)保(もり)の、守護職就任から薩長に敗れて15代将軍徳川慶喜とともに江戸に逃

れ、最後に会津で武士としての意地を貫き通すまでの激動の半生を骨っぽく描いた作品です。

◎わたしと「王城の護衛者」

会津松平家の藩祖は徳川二代将軍徳川秀忠が侍女に産ませた子であり、三代将軍家光の弟にあたります。

名を正之といい、信州高遠の保科正光に預けられ保科正之として育てられました。父秀忠と親子の対面を

したのは出生後18年目の寛永6年でその三年後に秀忠は亡くなりました。秀忠の死後寛永20年になってよ

うやく大領を貰い会津23万石を領し若松城主となりました。生後23年目にようやく二代将軍の落胤らしい

待遇をうけたことになります。この初代藩主である正之は謹直な性格の男であり、三代将軍の実弟にもか

かわらずよく仕えたので家光のこの人物を愛し、臨終のとき正之一人を病床に呼び「宗家を頼む」といっ

て死にました。このときの感動で正之は15箇条からなる家訓を制定したのでした。その第一条に「

わが子孫たる者は将軍に対し一途に忠勤をはげめ。他の大名の例をもってわが家を考えてはならない。も

しわしの子孫で二心を抱くような者があればそれはわしの子孫ではない。家来たちはそのような者に服従

してはならない」というようなことを書きました。この時代の大名の家訓の中でこれほど烈しく説きこん

だ例はありません。正之は家康の血統の中ではもっともすぐれた頭脳と政治能力を持っていました。藩政

を独特な政治学で整え、藩士を教育し、好学と尚武の藩風を作り上げ、寛文12年62才で死にました。この

正之の遺訓、言行が、幕末までこの藩の藩是となったのです。

その八世容(かた)敬(たか)に子供がなかったため縁戚にあたる美濃高須の松平家から養子をもらいうけ、

嗣子としました。これが九世容(かた)保(もり)です。

幕末、京都は尊攘浪士の暗躍で無政府状態でした。幕府の力も弱まってきており、所司代や京都奉行所

は取締りが出来なくなっていました。そんな窮状を打開するため幕府は松平容保京都守護職を命じまし

た。火中の栗をひろうようなそんな役目に家臣は猛反対しましたが、容保は家訓を守って家臣を説得して

京都に赴いたのです。その結果会津お預りの新撰組の活躍もあり京都の治安は安定しました。しかし時代

の流れは倒幕に大きく傾き、結局鳥羽伏見の戦いで幕軍は敗れ容保は江戸に逃れたのでした。15代将軍慶

喜は朝廷に対する逆賊の汚名を恐れ謹慎しましたが、容保は会津に戻り、討幕軍に対して最後の一戦に臨

みました。白虎隊の活躍もありましたが結局会津は敗れ若松城を開城したのです。本来ならば徳川慶喜

かぶるべき汚名を容保が一身にかぶった結果、明治になって会津藩は不毛の地であった陸奥斗南藩とし

て移住させられ辛酸をなめたのでした。幕末の時代多くの藩が薩長を中心とした討幕側になだれをうった

ようについた中で会津藩だけが最後まで徳川幕府を守ろうとした容保の武士としての生き方に司馬さんは

大きく心を動かされたのでしょう。

司馬さんはこの本の後書きで、この本を書いた直後、会津の人々から多くの手紙をいただいたが、とりわ

会津松平家の御当主からお礼の電話をいただいことがたれに読んでもらったよりもうれしかったと書い

ています。さらに司馬さんは、この作品は先年、京の黒谷の丘にのぼり、そこで枯草にまみれながら散乱

している会津藩士の墓石群をみたとき書こうとおもったとも書いています。会津藩に心寄せる司馬さんの

温かいやさしさが胸を打ちます。   

写真 京都守護職会津本陣のあった黒谷の浄土宗本山金戒光明寺の山門、同寺の裏側にある会津藩士の墓地