京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

雪の西教寺その2

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下の写真は明智光秀と一族の墓の脇に掲示されている駒札由緒書の文字部分。

西教寺4

少し登り坂となっている参道をゆくと石段があり、石段を登りきると境内に達する。右手に総欅入母屋造の本堂がどっしりとした姿を見せている。本堂は江戸時代 元文4年(1739)に上棟落成。正面の欄間や須弥壇はすべて欅の素木造で、江戸初期の特色を表す豪華な装飾が施されている。内陣には、重要文化財の本尊丈六の阿弥陀如来が安置されている。本堂の近くに明智光秀一族の墓とともに光秀正室の熙子の墓もある。明智光秀の妻熙子は細川ガラシャの母としても知られている。

元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失した。明智光秀が寺の復興に尽力。坂本城から坂本城の城門と陣鐘が寄進され、本堂は焼失の3年後に復興した。寄進された坂本城の陣鐘は国の重要文化財に指定されている。焼失した旧本尊の代わりに、甲賀郡(現・滋賀県甲賀市)の浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊とした。この阿弥陀如来像は現存し重要文化財に指定されているが、この像がもとあった浄福寺については詳細不明である。また、現存する本堂はその後改築されたもので、江戸時代中期の元文4年(1739年)の上棟である。上記の信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。