京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

阿弥陀寺と七日町のたたずまいその1


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会津若松市内に七日町通りという通りがある。毎月7の日に市が立ったところから名付けられた町で、現存する

大正時代の建物を中心に、蔵づくりの店や歴史を感じさせる洋館のたたずまいが、大正浪漫を感じさせるレトロ

な景観を形作っている。鶴ヶ城を後にしてその七日町通りに向かう。

七日町通りにある阿弥陀寺という寺に立ち寄る。阿弥陀寺と刻まれた石柱の横に「会津東軍墓地」と刻まれた石

柱が建っていた。戊辰戦争終結後、城下及び近辺で戦死した会津藩士の遺骸は、新政府軍の命令で触れる

ことは許されず放置されていた。幾度もの嘆願により、やっとその埋葬許可が下りたのは翌、明治2(1869)年の2

月。埋葬地は阿弥陀寺長命寺に限られ、ここ阿弥陀寺には、およそ千三百柱にのぼる遺骸が埋葬された。

新撰組三番隊隊長として有名な斎藤一。彼は戊辰戦争の際「会津を見捨てることはできない」と、北へ向かっ

土方歳三と別れて会津に留まる。戦争終結後は藤田五郎と名を変えて、警視庁に勤務し西南戦争で活躍を

みせた。大正4(1915)年に72歳で往生を遂げた斎藤は、後半生を会津人として生きた彼の希望により、ここ阿弥

陀寺に葬られている。

阿弥陀寺は、慶長8年(1603)、蒲生秀行公から土地を賜った良然上人による開山が始まりとされている。だが由

緒あるこの寺院は、二度の火災で建物が焼失。戊辰戦争後、昭和30(1955)年に本堂を再建するまでの長い

間、取り壊しが決定した鶴ヶ城より払い下げられた御三階(ごさんかい)を、仮本堂として使用していた。その玄

関部分に飾られた三つ葉葵の紋が見守る境内には、上記の通り戊辰戦争で戦死した会津藩士の墓や元新撰

組の斎藤一藤田五郎)の墓などがひっそりと佇んでいるのである。

東北の秋は暮れるのが早い。境内にたたずんでいるとたちまち夜の戸張が降りてきて、感傷に耽る間もなく暗

くなった境内を後にした。