京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

飯盛山その3

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墓地の右にある「白虎隊士自刃の地」の案内に沿ってしばらく歩いてゆくと急に視界が明るくなり、眼前には会津

の町並みが広がっていた。自刃の地に建つ白虎隊士の石像が手をかざす方向に鶴ヶ城天守閣が見えてい

た。

慶応4年(1868)8月23日(新暦10月8日)、年齢が16から17歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は猪苗代から

十六橋を越えて進撃した西軍と戸の口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐって

この地に至った。炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を戦わした。敵陣突入を提案する者もいれ

ば、鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして帰城を主張する者もいた。しかし最終的に「敵に捕らえられ屈辱

を受けるような事があれば、主君に対して大変申訳なく、祖先に対しても申訳ない。この場は潔く自刃し、武士の

本分を明らかにすべき」との決断に全員が同意し、一同列座、鶴ヶ城に向かって決別の意を表し、全員が自刃し

た。後一名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。なお鶴ヶ城の開城はその一か月後であった。

蘇生した飯沼貞吉は明治5年工部省に任官。電信電話の技術を担当し要職を歴任、仙台逓信管理局工務部長

を退くまでの四十余年、逓信事業に輝かしい功績を残して昭和6年仙台で没した。享年78歳であった。自刃の地

のそばに昭和32年9月に建てられた「飯沼貞雄翁記念碑」がある。(三番目の写真)