墓地の右にある「白虎隊士自刃の地」の案内に沿ってしばらく歩いてゆくと急に視界が明るくなり、眼前には会津
た。
慶応4年(1868)8月23日(新暦10月8日)、年齢が16から17歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は猪苗代から
十六橋を越えて進撃した西軍と戸の口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐって
この地に至った。炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を戦わした。敵陣突入を提案する者もいれ
ば、鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして帰城を主張する者もいた。しかし最終的に「敵に捕らえられ屈辱
を受けるような事があれば、主君に対して大変申訳なく、祖先に対しても申訳ない。この場は潔く自刃し、武士の
本分を明らかにすべき」との決断に全員が同意し、一同列座、鶴ヶ城に向かって決別の意を表し、全員が自刃し
のそばに昭和32年9月に建てられた「飯沼貞雄翁記念碑」がある。(三番目の写真)