大橋を渡ったすぐの交差点の手前に立っている案内板の「西應寺庭園」の文字が横を通るたびにいつも気に
なっていたが、今回ようやく行く機会を得た。
西應寺ー「少菩提寺石多宝塔・石仏」や「菩提禅寺を訪ねて」のページでも書いたようにこの地一帯には、もと奈
は、山上山麓の広域にわたって大金堂、三重塔、開山堂などを中心にして、7つの神社と36の僧坊を構えてその
偉容を誇っていたが元亀元年(1570年)、織田信長の兵火によって全山は殆んど焼失し、それらの礎石を残す
のみとなった。このうち禅祥坊が現存の西応寺の前身である。寺宝の明応元年(1492年)4月25日の記録のある
古絵図には、盛時の状況が克明に描かれており、現在の山裾に禅祥坊があったことがうかがえる。 山号:功徳
本庭園は山と樹林と空を背景として、大きい築山の間に枯滝・枯流れを設け、建物の前面から西の山裾にかけ
て細長い枯池をめぐらした、いわゆる枯山水の庭であるが、水を流せば谷川となり池に湛えられるような写実的
な表現をとっている。多数の石組みには鈍穴流の手法が生かされており、枯滝石組や渓流に架けた上下ちがい
の石橋、曲池西側の石橋、築山の飛石の分岐点に捉えられた3石を寄せた踏分石などは独特であるという。形
式を異にし、大小高低様々な石灯籠や石擬宝珠柱などが置かれている。東の一段高い台地には楼が建立され
て、高さ33尺(約10m)もの巨大な十三重石塔が並び立っているのが目を引く。それに続く山裾にも三尊石を中
心とする石組や、降雨の折の排水を兼ねた枯流れが設けられている。主庭のほかに客殿・書院・庫裡をめぐる
小空間にも、それぞれに趣向をこらした庭が見られる。
今年建て替えられ檜の香りが匂い立つ本堂の右手にある巨石の存在には驚かされる。戦火で焼き尽くされた伽
藍の中で唯一かっての威容を知る巨石なのであろう。