京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

盛夏近江八幡 八幡山に登るその1

イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
日牟礼八幡宮の側にあるロープウェーで八幡山に登った。山頂駅まで4分、標高271.9mの低い山であるが1585
 
年(天正13年)、豊臣秀次によりこの山頂に八幡山城が築城された。最頂部に本丸が設けられ、二の丸、西の
 
丸、北の丸、出丸が配置され、全山一大要塞であったと推測されている。現在は石垣を残すのみであるが本丸
 
跡には瑞龍寺が建てられている。
 
豊臣秀次天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めでは秀長と共に副将をつとめ千石堀城の戦いで城を落とし、
 
国平定でも副将として3万を率いて軍功を挙げた。このため、近江国蒲生郡八幡山城(現在の近江八幡市)に43
 
万石を与えられた(うち、23万石は御年寄り衆分)。領内の統治では善政を布いたと言われる。
 
文禄4年(1595年)、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ7月3日、聚楽第に居た秀次のもとへ石田三成前田玄
 
増田長盛の3名の奉行の他、宮部継潤富田一白(奉行代行)の計5名が訪れ、秀次に対し高野山へ行くよ
 
うに促した。 7月8日に秀次は謀反についての釈明の為に、秀吉の居る伏見城へ赴くが、福島正則らに遮られ、
 
対面することが出来ず、同日高野山へ入り、それから1週間後の15日に秀次の許へ正則らが訪れ、秀次に対し
 
秀吉から切腹の命令が下ったことを伝えられ、同日、秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々が
 
切腹したのであった豊臣秀吉の甥として生まれ、関白まで上り詰めたその運命に翻弄された秀次であった。
 
八幡山の頂上から眺めた近江八幡の町並みは小気味いいほど美しい。秀次はこの八幡山城天守閣から朝
 
な夕な町並を見下ろし眺めながら、初めての城持ち大名として国造りに勤しんだことだろう。