京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

近江日野川と比良山冠雪

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琵琶湖湖東の野洲から近江八幡にかけて東海道新幹線に沿って走る農道がある。その農道が日野川に架かる

桐原新橋を東に渡るとそこは近江八幡市である。桐原新橋の東詰の袂の南側に立っている銅像豊臣秀次

北側にあるのが日野川流域の迩保郷と桐原郷の三人の庄屋の銅像である。近江八幡豊臣秀次が開いた町

である。秀次は豊臣秀吉の甥であるが、天正13年(1585年)18才の時四国征伐の功績により43万石の領主とし

近江八幡に赴任。天正14年に八幡山に八幡城を築城し、山麓琵琶湖疏水の八幡堀を造り湖上の交通を制

し、楽市楽座を規範とした碁盤上の整然とした町並みを形成し、これが今日の近江八幡市の中心街であり秀次

開町以来400有余年、近江八幡市は日本の経済界に大きな影響を及ぼした近江商人出生の地として栄えてき

秀次は関白秀吉から関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子秀頼が誕生

して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。

秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑されたが、領内の統治では善政を布いたと言わ

れ、近江八幡には「水争い裁きの像」などの逸話があり、橋の袂の銅像日野川流域の迩保郷と桐原郷の両村

日野川の農業用水の水争いに対立したが、秀次の裁定により解決した逸話を後世に残し、秀次の遺徳を偲

び顕彰されたものという。

桐原新橋からは今冬初めての比良山冠雪を臨むことができた。