である。秀次は
豊臣秀吉の甥であるが、
天正13年(1585年)18才の時
四国征伐の功績により43万石の領主とし
し、
楽市楽座を規範とした碁盤上の整然とした町並みを形成し、これが今日の
近江八幡市の中心街であり秀次
開町以来400有余年、
近江八幡市は日本の経済界に大きな影響を及ぼした
近江商人出生の地として栄えてき
た
。秀次は関白秀吉から関白の職を譲られ、
家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子秀頼が誕生
して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて
高野山青巌寺に蟄居となった後に
切腹となった。
秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑されたが、領内の統治では善政を布いたと言わ
れ、
近江八幡には「水争い裁きの像」などの逸話があり、橋の袂の
銅像は
日野川流域の迩保郷と桐原郷の両村
が
日野川の農業用水の水争いに対立したが、秀次の裁定により解決した逸話を後世に残し、秀次の遺徳を偲
び顕彰されたものという。
桐原新橋からは今冬初めての比良山冠雪を臨むことができた。