京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

八幡山眺望その1

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近江八幡の日牟禮八幡宮を懐に抱き、町並みを見下ろす山、八幡山はかつて八幡山城があった山で、羽柴秀

次が築城した山城として知られる。

近江八幡駅より北西へ約2.5kmにある、独立丘鶴翼山、通称八幡山(標高283m、比高100m)の南半分山上に築

城された、急峻な山城である。現在の八幡山は独立丘となっているが、築城当時は東西に内湖があり、南の平

野部に城下町を配した構造は、安土城と類似した占地に築城している。城下町は安土城下町を移住させて形成

された。かつての城下町の一部は日牟禮八幡宮境内地、八幡堀とともに近江八幡市八幡伝統的建造物群保存

地区の名称で重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

1582年(天正10年)の本能寺の変山崎の戦いのしばらく後に灰燼に帰した安土城は、清洲会議を経て三法師

織田秀信)を城主に、織田信雄を後見人として再興することとなった。しかし翌1583年(天正11年)の賤ヶ岳の

戦い以降、政情が豊臣秀吉の天下へ移行する中で、1585年(天正13年)の紀州攻め、四国征伐で副将格で戦

陣に入り武勲を立てた豊臣秀次は8月23日の論功行賞で近江八幡43万石(豊臣秀次は20万石、宿老

に23万石)を与えられると安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町を移築した。

豊臣秀次は18歳で入城したが、1590年(天正18年)に尾張国清洲城へ移封。代わって京極高次が2万8千石で

入城したが、1595年(文禄4年)秀次事件で羽柴秀次切腹聚楽第と同時期、築城から10年で八幡山城は廃

城となり、京極高次は大津城へ移った。

本丸跡には秀次の母・豊臣秀吉姉の日秀尼(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が1963年(昭和38年)に移転され

ている。

八幡山の山上へは全長:543m高低差:157mのロープウェーに乗る。山上からの眺めは素晴らしく、秀次が心血

を注いだといわれる、麓に広がる城下町の面影を残す近江八幡市の街並み、目を転ずれば西の湖、安土山、観

音寺山、琵琶湖、長命寺山、長命寺港等が眼下に広がる。