京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

初夏の古都(三年坂から清水寺参道まで)

イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
三年坂に出てだらだら坂をしばらく歩いてゆくと石段が目に入る。二年坂の石段よりは勾配が急であり、石段を
 
登り切ると松原通り、すなわち清水寺参道に出る。石段の中ほどに石段に大きくかぶさるようにして青葉が茂る
 
樹木がある。枝垂桜である。桜の季節にこの三年坂を登り切った場所から振り返ると、満開の枝垂桜に誰しも目
 
を瞠ることとなる。その枝垂桜の植わっている料亭が「明保野亭」である。明保野亭は幕末の頃、現在の場所よ
 
りもう少し北東よりにあったとされ、「明保野亭事件」として有名。
 
「明保野亭事件」
 
幕末に発生した、長州浪士捕縛活動においての誤報に起因する土佐藩士傷害切腹と、それに伴う会津藩
 
切腹事件。
 
元治元年6月10日1864年7月13日)に、幕府により池田屋事件の残党の捕縛を命じられた新選組が、同日に
 
料亭「明保野」に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得た。武田観柳斎率いる新選組隊士15名と、前日
 
より応援として派遣されていた会津藩士20名のうち5名が共に捕縛に向かった。現場で会津藩士の柴司が、座敷
 
にいた武士を制止しようとしたところ、相手が逃げ出したため、取り押えようと追跡のうえで傷を負わせた。直
 
後に相手が浪士ではなく土佐藩麻田時太郎(時次郎、とする説もある)と判明したため、その場で解放した。
 
当初、柴の行為に問題無しとして念のため会津藩から医師と謝罪の使者を送り、これに対し土佐藩側も最初に
 
名乗らなかった麻田にも落ち度があると理解を示していたものの、翌6月11日に麻田が「士道不覚悟」として藩に
 
より切腹させられたことにより、若い土佐藩士たちが「片手落ち」だと激昂し、会津・土佐の関係に亀裂が入りか
 
ねない事態へと発展したが、結局6月12日に柴司が謝罪の意で切腹し、両者の関係悪化は回避されたという。
 
三年坂を登り切った右手には年中商売繁盛の七味を売る七味家本舗があり、この日も大勢の観光客が来店
 
していた。七味家本舗の前の通りは三叉路になっていて、右手の松原通りを下ると東山通りに出、その左手の
 
通りは五条通りでこれも下ってゆくと五条東山通りに至る。一方左手、つまり松原通(清水寺参道)を登ってゆくと
 
門前町の土産店の中を抜けて清水寺に至ることとなる。