京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

萩 維新を訪ねてその1

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                                     前原一誠を中心とした萩の変の殉難碑

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                             幕末池田屋事件で討ち死にした吉田利麿の誕生地

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                                                            伊藤博文旧宅

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                                               伊藤博文別邸(東京から一部を移築

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                                                           玉木文之進旧宅

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松門神社のそばに新しい碑が建っていた。幕末池田屋事件で討ち死にした吉田利麿の誕生地の碑である。

吉田 稔麿(よしだ としまろ、天保12年閏1月24日(1841年3月16日) - 元治元年6月5日(1864年7月8日))は、江

戸時代末期(幕末)の長州藩の活動家。名は栄太郎。後に稔麿と改名した。久坂玄瑞高杉晋作とともに松陰門

下の三秀と称される(入江九一を入れて松門四天王ともいう)。文久3年(1863年)6月、高杉晋作の創設した奇兵

隊に参加。7月に屠勇隊を創設。8月の朝陽丸事件では烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。また

この年に稔麿と改名した。元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、吉田も出席していたが、一度屯所に戻

に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした、とされている。また別の説として、池田

屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もある。

享年24。

吉田利麿誕生地からしばらく歩き、案内板に沿って右に曲がりしば゛らく歩を進めると維新の元勲であり、明治政

府の初代総理大臣となった伊藤博文の旧宅とその隣に東京から移築された別邸がある。萩市内といってもこの

辺りは萩の東を南北に走る小高い山の山裾であり、町中を流れて日本海に注ぐ松本川を隔てて、川の西側が

萩城のある城下町であり、ここらあたりは町はずれの田園地帯であった。だからいまでも畑が点在するのどかな

田園風景が広がっている。城下町の武家屋敷に住む上士と違って、この一帯は下士足軽が住んでいたのだ

ろう。

伊藤博文(いとう ひろぶみ)、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、政治家。

位階勲等爵位従一位大勲位公爵。は博文(ひろぶみ)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊

を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とした。1909年、ハルビン朝鮮民族主義活動家の安重根に暗殺された。

伊藤博文の旧宅から来た道を戻り、山手に向かってだらだら坂を上る。あたりは田畑が増え、ますます穏やかな

秋の風景が広がっていた。道の左側に玉木文之進の旧宅が見えてきた。

玉木文之進(たまき ぶんのしん)、幕末の長州藩士で教育者・山鹿流の兵学者。松下村塾創立者吉田松陰

の叔父に当たる。天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、少年期の松陰を厳しく教育した。また親戚の乃木希

典も玉木の教育を受けている。明治9年(1876年)、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼や門弟の多くが参

加したため、その責任を取る形で11月6日に先祖の墓の前で自害した。享年67。