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愛読書30「幕末」

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幕末の暗殺を取り上げた短編小説で、昭和38年1月から12月にかけて「オール讀物」に連載されました。

桜田門外の変、奇妙なり八郎、花屋町の襲撃、猿が辻の血闘、冷泉斬り、祇園囃子、土佐の夜雨、逃げの小五

郎、死んでも死なぬ、彰義隊胸算用、浪華城焼打、最後の攘夷志士の12編です。

◎わたしと「幕末」

桜田門外の変はいうまでもなく江戸城桜田門の門前で井伊大老が水戸浪士に襲われ、斬首された幕末の最

大の事件の一つです。大老が登城途中で暗殺されるという前代未聞の事件で、徳川幕府の権威は一挙に落

ち、討幕が早まった事件でした。その事件を唯一薩摩藩から参加した有村雄助と治左衛門兄弟側から描かれて

います。この小説で司馬さんは次の文章を残しています。「この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、そ

の史的意義を説くのが本編の目的ではない。ただ、暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは

絶無といっていいが、この変だけは例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじ

まる。斬られた井伊直弼は、そのもっとも重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最

精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬りこまれて惨敗したことによって、討幕の推進者を躍動させ、その

エネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない」

「奇妙なり八郎」は出羽浪人清川八郎を描いた小説です。清川八郎は浪人の身ながら時代の情勢を敏感に嗅

ぎわける策士の体質を持っており、幕府擁護のため浪士組を結成して京に上るという案を幕府に説きます。そし

文久三年二月清河は幕府が江戸で徴募した234人の浪士団とともに江戸を出発します。浪士団の中にはのちに

分派して京都で新撰組をつくった近藤勇土方歳三沖田総司原田左之助藤堂平助山南敬助、井上源三

郎、永倉新八らがくわわっていました。京に到着した夜、清河は、幕府の召募によって京へきたが、幕府から禄

位は受けていない浪士であり、幕府を奉ぜず、尊王大義のみ奉ずると、策士である清河は浪士たちを扇動し

ます。もともと近く上洛する将軍家茂の身辺守護と京都における浮浪浪士の鎮圧のため召募されたと思っている

浪士たちは驚きます。清河一派は朝廷の公家たちに運動し、勅諚を賜り、夷敵から江戸を守るという口実で江戸

に戻ることとなり、京都の守護を主張する近藤勇らと袂を分かつこととなったのです。結局江戸に戻った清河は

幕府から何を仕出かすかわからない危険分子とみなされ、のちに幕府見廻組組頭になる佐々木唯三郎らに

暗殺されます。清河八郎の策で浪士団が結成されたことで、近藤勇らは京都に上ることとなり、八郎と分かれて

京都に残ったことで新撰組が誕生することとなるのです。策士である八郎の奇妙な行動が新撰組を産んだと

いってもいいでしょう。

花屋町の襲撃」坂本竜馬が創設した海援隊陸奥陽之助(のちの伯爵陸奥宗光)が河原町三条の近江屋

で暗殺された坂本竜馬の仇を討つ話です。京都下京油小路花屋町南の旅館天満屋がその舞台です。わたしが

生まれた実家はその花屋町の新町でしたから、天満屋があった場所は10分ぐらいで行ける距離でした。わたし

の友人が現在もその天満屋のあった場所の隣でお茶の販売をしていますが、祖父から隣にあった旅館で幕末

に斬殺事件があったと聞いたことがあるといっていました。陸奥陽之助がある日その天満屋紀州藩用人三浦

休太郎が身辺を守る新撰組の隊士と酒宴をするという情報をつかみ仲間と斬り込みました。実はこの春坂本竜

馬が乗船する海援隊蒸気船いろは丸が讃岐の沖合で紀州藩の藩船明光丸と衝突し、いろは丸は積荷と共に沈

んでしまうという事件がありました。事件は紀州藩側に非があり、海援隊側は賠償金を得たのですが、その時の

紀州藩側の担当が三浦休太郎であり、その折衝上の因縁で坂本竜馬を恨んでいたことから、見廻組と新撰組

そそのかして坂本竜馬を殺させたというのです。三浦休太郎はうまく逃げ出したのですが、結局坂本竜馬を殺し

た下手人は謎のまま現代に至っています。

「猿が辻の血闘」は長州系公家姉小路公知(あねのこうじきんとも)が御所朔平門外(御所の東北、鬼門にあた

る)猿が辻で夜分刺客に暗殺された事件を扱った小説です。姉小路公知が暗殺される場面の描写がすさまじい

迫力で読む者に迫ってきます。なお現場に薩摩藩田中新兵衛(人斬り新兵衛の異名をとり、土佐の岡田以

蔵、薩摩の中村半次郎、肥後の河上彦斎とともに人斬りで世間を震えあがらせた)の刀が残っていたことから田

中新兵衛が下手人として取り調べを受けましたが、取り調べの最中に切腹して果ててしまいました。自分の刀を

手離したことを武士として恥じたためともいわれています。新兵衛が下手人かどうかは結局不明となりました。

「冷泉斬り」大和絵の画家、冷泉為恭(れいぜいためちか)が奈良県天理市の上街道で暗殺された話です。

為恭は江戸の御用絵師で最高の格式を持っていた養信からも技量を認められた絵師でしたが、優秀とは言え、

一介の画家にすぎない冷泉為恭が、なぜ「天誅」のターゲットになったのでしょうか。 当初、為恭は公家社会に

いたことから、倒幕派から王朝擁護と見られていたにもかかわらず、佐幕派の要人宅に出入りするなど、その行

動に勤王派から疑問が持たれ出していました。こうした軽率な態度が、勤王の志士たちに「倒幕派の情報を漏ら

しているのではないか」という疑心暗鬼を抱かせる事になったようです。文久2年(1862年)8月、過激な尊攘派

ら命を狙われ、逃亡生活が始まりましたが、尊攘派の追跡は厳しく、堺から大和国、大和丹波市にある石上神

宮の神宮寺である内山永久寺(奈良県天理市)に逃れますが追っ手が迫り、逃亡中のこの日郊外の鍵屋の辻

で、長州藩大楽源太郎らによって捕縛、殺害されました。首を切られた身体はそのまま放置、首は大阪に梟さ

れたということです。享年42歳でした。

「祇園囃子」は大和十津川の郷士浦啓輔が、公武合体論により公家、諸侯を説きまわっている水戸藩京都警衛

指揮役住谷寅之介を土佐藩士山本旗郎とともに妾宅を出た寅之介を先回りして暗殺する話です。大和十津川

神武天皇が熊野に上陸して大和盆地に攻め入るときに、道案内をつとめた土着人がかれらの祖先であり、以

来朝廷に対しさまざまの形で奉仕し、京に政変があると敏感に動いて、朝廷のために武器をとって起ったという

歴史があります。古くは保元平治の乱南北朝の乱などに登場しており、朝廷に対する崇敬の念が強いので

す。一方住谷寅之介は勤王を尊ぶ水戸学の学者であり、その学者を暗殺することに同じ勤王の郷士としてため

らわずにいられず悩みますが、住谷寅之介のかざす公武合体論が薩長を中心とした討幕の障害になると、山本

旗郎は浦啓輔を説き、結局住谷寅之介を暗殺してしまいます。奈良の山奥に棲む十津川郷士では幕末の政局

などわかるはずもなく利用される浦啓輔でした。

「土佐の夜雨」土佐藩の参政吉田東洋が暗殺される話です。何度も申し上げてきた通り、土佐藩は藩祖山内

一豊が関ヶ原の恩賞で遠州掛川からこの土佐を拝領し、入部した時に連れてきた家臣が上士となり、土着の旧

長曾我部家の家臣が郷士となって、徳川の時代、差別を受け続けてきました。例えば上士が道を通る時は、郷

士は道脇で土下座して道を譲るとか、雨が降ると上士は傘を差すことが出来るが郷士はできないとか、いろいろ

な差別を受けて幕末を迎えていたのです。吉田東洋は参政であり、今でいえば総理大臣ですから土佐藩藩政の

実力者でした。一方郷士土佐勤王党を結団し、その統領が武市半平太で、薩長とともに討幕すべく活動して

いましたから、何とか藩論を討幕にまとめるため、藩の上層部を説きまわっていました。しかし半平太の意見は

理解されず、最後に死を決して吉田東洋を説きますが、関ヶ原以来土佐は薩摩や長州とは違って、徳川幕府

対し恩義があるといって話を聞き入れません。土佐勤王党は、徳川幕府に恩義があるのは藩主と上士であり、

郷士は虐げられてきたのだと吉田東洋に反発、雨が降りしきる夜、吉田東洋は暗殺されることとなります。

「逃げの小五郎」は長州の桂小五郎が京都での蛤御門ノ変のあと幕府からの探索に身を隠し、逃げ回って幕末

を生き抜いたという話です。蛤御門ノ変は文久三年のいわゆる「禁門ノ政変ー朝廷内の長州藩勢力を一掃する

ため薩摩と会津が手を結んで京都から長州藩と長州派公家を追い出した事件」以来、長州藩がにわかに京都

における勢力を失ったことに対する反動で、長州藩の三家老が兵を率いて実力をもって朝廷に強訴し、出来れ

ば政敵の会津藩松平容保薩摩藩島津久光を討とうとしたことから起こった事件です。しかし藩の代表であ

桂小五郎は、この男の慎重な性格からして、あくまでも武装入洛には反対し、長州勢が京を三方から包囲した

時も藩邸を出ず、長州の遠征部隊の陣にも走らなかったのでした。嵯峨天龍寺に陣取っていた来島又兵衛など

は使者を何度も桂のもとへ走らせて、「桂、長州武士の風上にもおけぬ臆病者」と面罵せしめたといいます。

桂小五郎木戸孝允になってからのある日の日記にこう記してあったそうです「大政の一新、実に天のなすとこ

ろにて、多年、志士仁人、身を殺し、骨を暴(さら)し、王家につくしやうやくここにいたる。友人中、天下の為に斃

るる者もまた数十人、而してかへつて余輩こんにちに遭遇す。豈(あに)尽くすべけんや」

「死んでも死なぬ」長州藩の上士、井上聞多、のちの井上馨が刺客に襲われ、全身なますのように切り刻ま

れますが奇跡的に一命を取りとめた話です。井上聞多とのちに総理大臣までなった伊藤俊輔(博文)とは、吉田

陰の松下村塾時代から中がよくいつも一緒に行動するといった仲でした。聞多が上士の出なのに対し、俊輔は

百姓の出であり、二人の交わりは当時の常識からすれば考えられなかったのですが、そこに土佐とは違った身

分の上下に余りこだわらない長州の特性がうかがえます。二人は高杉晋作のもとで、江戸品川御殿山に建築中

の英国使館の焼打ちに参加していますし、のちに二人は英国にも一緒に留学している間柄でした。英国に留学

したことで二人は今まで持っていた攘夷論者から開国主義者になっていましたから、その変節をとがめる攘夷派

から襲われたのでした。しかし運よく一命を取り止め、維新政府で顕職を歴任することになります。井上聞多のし

ぶとい生き様を明快に描いている小説です。

彰義隊胸算用」は幕府直参寺沢新太郎が彰義隊に入り、上野戦争で敗れ、蝦夷地の松前藩の居城福山城

戦いに参加しますが、維新を生き延び、明治政府の官職について明治末年まで存命する話です。

「浪華城焼打」は土佐の脱藩志士、田中顕助がほかの脱藩志士とともに浪華城(大坂城)を焼き討ちするという

途方もない計画にのめり込んでゆく話です。田中顕助は土佐藩参政吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の一人、

那須信吾の甥です。那須はその後天誅組の一将となり、大和吉野川畔の彦根兵陣地に斬り込んで討死しまし

た。信吾の養父那須俊平もその後脱藩、長州に身を寄せ元治元年夏の蛤御門の変で戦死してしまっています。

当時顕助は土佐にいましたが、肉親の非業の死を聞いて矢もたてもたまらず脱藩したのでした。結局浪華城は

焼き討ちなどできず、田中顕助は維新後陸軍少将、ついで武職をやめ、参事院議官、元老院議官、警視総監、

貴族院議員、宮中顧問官、学習院長、宮内大臣を歴任しました。没したのは昭和14年。才質さほどでもなく、維

新の志士の中では三流に近かったのですが、一流はほとんど死に、田中顕助はただ奇跡的な長寿を得たため

に多くの栄誉をうけました。幕末は狂気じみた人間を数多く輩出し、ほとんどの人間が非業に倒れ、生き残った

人間が維新の功績を得たということです。

「最後の攘夷志士」はこの「幕末」に収録された最後の小説です。攘夷志士が京で英国公使サー・ハーリー・

パークスの行列を襲撃した事件を題材にしています。この小説にも「浪華城焼打」の田中顕助が深く関わってい

ます。浪華城(大坂城)焼打に失敗した田中顕助は大和中津川の山中に逃げ、ようやく京に潜入し、おりから洛

北白川村で浪士団陸援隊を率いている土佐浪士中岡慎太郎を知り、陸援隊に入隊します。入隊早々中岡が同

藩のよしみで副長格に抜擢してくれました。ほどなく中岡慎太郎が幕吏に暗殺されたため、顕助が隊長代理とな

ります。運がいいことに顕助が隊長代理になったとたんに、王政復古、討幕と舞台が大きくまわり始めました。こ

のため一昨々年前に土佐を飛び出したばかりの二十五才の青年が、周囲のめまぐるしい変化で、にわかに土

佐討幕派の巨魁の一人にのし上がったのです。まさに乱世といえるでしょう。そして討幕の密謀主である薩摩の

大久保利通から高野山で義軍をあげるようにいわれます。その義軍に参加したのが主人公三枝蓊(さえぐさしげ

る)です。三枝蓊は攘夷論者の国学者であり、天誅組の生き残りだったのです。鳥羽伏見の戦い幕府軍は負

け、その残兵が紀州徳川家を頼って紀州に来たのを、高野義軍は打ち負かし、田中顕助や三枝蓊は京に戻りま

す。その前後相次いで諸藩の藩兵と外国兵との衝突事件が起こり、攘夷派浪士たちは激高します。新政府は建

前上は攘夷論で討幕を進めてきましたが、政府を樹立した以上、諸外国との外交上、攘夷などできるはずもな

く、開国論を取らざるを得なくなります。田中顕助はそんな新政府を時代の流れとしてとらえますが、三枝蓊他数

人の攘夷派は攘夷決行を画策します。

慶応4年2月30日(1868年3月23日)イギリス公使パークス一行は明治天皇に謁見するため宿舎の京都の知恩院

を出て御所に向かう途上、2人の男に襲撃されました。すぐさま護衛の中井弘蔵と後藤象二郎が反撃し、犯人の

一人朱雀操を斬殺しました。もう一人の犯人である三枝蓊も他の警護兵に重傷を負わされ、逃走しようとした所

を捕縛され、襲撃は失敗に終わりました(パークス襲撃事件) そして、三枝蓊は同年3月4日に斬首されたので

した。新政府は三枝と死んだ朱雀に対しては極刑をもって臨みました。かれらの士籍を削り、平民に落とし、朱

雀の死屍から、首を切りはなして、粟田口の刑場に梟(さら)しました。同じ梟首台に三枝の生首もならびました。

処刑の場所は粟田口であり、方法は武士に対する礼ではなく、斬首でした。ほんの数ケ月前なら、かれらは烈士

であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は叙勲の栄があったにかれらはちがいありません。その「攘夷」

のかどで攘夷党の旧同志によって処刑され、ついに永遠の罪名を着たのでした。

この本のあとがきで司馬さんはこう書き終えています。「暗殺は否定すべきであるが、幕末史は、かれら暗殺者

群によって暗い華やかさをそえることは否定できないようである」と・・・