幕末の暗殺を取り上げた短編小説で、昭和38年1月から12月にかけて「オール讀物」に連載されました。
郎、死んでも死なぬ、彰義隊胸算用、浪華城焼打、最後の攘夷志士の12編です。
◎わたしと「幕末」
います。この小説で司馬さんは次の文章を残しています。「この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、そ
の史的意義を説くのが本編の目的ではない。ただ、暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは
まる。斬られた井伊直弼は、そのもっとも重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最
精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬りこまれて惨敗したことによって、討幕の推進者を躍動させ、その
エネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない」
「奇妙なり八郎」は出羽浪人清川八郎を描いた小説です。清川八郎は浪人の身ながら時代の情勢を敏感に嗅
ぎわける策士の体質を持っており、幕府擁護のため浪士組を結成して京に上るという案を幕府に説きます。そし
文久三年二月清河は幕府が江戸で徴募した234人の浪士団とともに江戸を出発します。浪士団の中にはのちに
郎、永倉新八らがくわわっていました。京に到着した夜、清河は、幕府の召募によって京へきたが、幕府から禄
ます。もともと近く上洛する将軍家茂の身辺守護と京都における浮浪浪士の鎮圧のため召募されたと思っている
浪士たちは驚きます。清河一派は朝廷の公家たちに運動し、勅諚を賜り、夷敵から江戸を守るという口実で江戸
に戻ることとなり、京都の守護を主張する近藤勇らと袂を分かつこととなったのです。結局江戸に戻った清河は
幕府から何を仕出かすかわからない危険分子とみなされ、のちに幕府見廻組組頭になる佐々木唯三郎らに
いってもいいでしょう。
の友人が現在もその天満屋のあった場所の隣でお茶の販売をしていますが、祖父から隣にあった旅館で幕末
休太郎が身辺を守る新撰組の隊士と酒宴をするという情報をつかみ仲間と斬り込みました。実はこの春坂本竜
た下手人は謎のまま現代に至っています。
「猿が辻の血闘」は長州系公家姉小路公知(あねのこうじきんとも)が御所朔平門外(御所の東北、鬼門にあた
る)猿が辻で夜分刺客に暗殺された事件を扱った小説です。姉小路公知が暗殺される場面の描写がすさまじい
中新兵衛が下手人として取り調べを受けましたが、取り調べの最中に切腹して果ててしまいました。自分の刀を
手離したことを武士として恥じたためともいわれています。新兵衛が下手人かどうかは結局不明となりました。
為恭は江戸の御用絵師で最高の格式を持っていた養信からも技量を認められた絵師でしたが、優秀とは言え、
一介の画家にすぎない冷泉為恭が、なぜ「天誅」のターゲットになったのでしょうか。 当初、為恭は公家社会に
動に勤王派から疑問が持たれ出していました。こうした軽率な態度が、勤王の志士たちに「倒幕派の情報を漏ら
れたということです。享年42歳でした。
指揮役住谷寅之介を土佐藩士山本旗郎とともに妾宅を出た寅之介を先回りして暗殺する話です。大和十津川
は神武天皇が熊野に上陸して大和盆地に攻め入るときに、道案内をつとめた土着人がかれらの祖先であり、以
来朝廷に対しさまざまの形で奉仕し、京に政変があると敏感に動いて、朝廷のために武器をとって起ったという
す。一方住谷寅之介は勤王を尊ぶ水戸学の学者であり、その学者を暗殺することに同じ勤王の郷士としてため
旗郎は浦啓輔を説き、結局住谷寅之介を暗殺してしまいます。奈良の山奥に棲む十津川郷士では幕末の政局
などわかるはずもなく利用される浦啓輔でした。
長曾我部家の家臣が郷士となって、徳川の時代、差別を受け続けてきました。例えば上士が道を通る時は、郷
士は道脇で土下座して道を譲るとか、雨が降ると上士は傘を差すことが出来るが郷士はできないとか、いろいろ
いましたから、何とか藩論を討幕にまとめるため、藩の上層部を説きまわっていました。しかし半平太の意見は
「逃げの小五郎」は長州の桂小五郎が京都での蛤御門ノ変のあと幕府からの探索に身を隠し、逃げ回って幕末
における勢力を失ったことに対する反動で、長州藩の三家老が兵を率いて実力をもって朝廷に強訴し、出来れ
は使者を何度も桂のもとへ走らせて、「桂、長州武士の風上にもおけぬ臆病者」と面罵せしめたといいます。
ろにて、多年、志士仁人、身を殺し、骨を暴(さら)し、王家につくしやうやくここにいたる。友人中、天下の為に斃
るる者もまた数十人、而してかへつて余輩こんにちに遭遇す。豈(あに)尽くすべけんや」
陰の松下村塾時代から中がよくいつも一緒に行動するといった仲でした。聞多が上士の出なのに対し、俊輔は
百姓の出であり、二人の交わりは当時の常識からすれば考えられなかったのですが、そこに土佐とは違った身
分の上下に余りこだわらない長州の特性がうかがえます。二人は高杉晋作のもとで、江戸品川御殿山に建築中
の英国使館の焼打ちに参加していますし、のちに二人は英国にも一緒に留学している間柄でした。英国に留学
したことで二人は今まで持っていた攘夷論者から開国主義者になっていましたから、その変節をとがめる攘夷派
から襲われたのでした。しかし運よく一命を取り止め、維新政府で顕職を歴任することになります。井上聞多のし
ぶとい生き様を明快に描いている小説です。
戦いに参加しますが、維新を生き延び、明治政府の官職について明治末年まで存命する話です。
「浪華城焼打」は土佐の脱藩志士、田中顕助がほかの脱藩志士とともに浪華城(大坂城)を焼き討ちするという
当時顕助は土佐にいましたが、肉親の非業の死を聞いて矢もたてもたまらず脱藩したのでした。結局浪華城は
焼き討ちなどできず、田中顕助は維新後陸軍少将、ついで武職をやめ、参事院議官、元老院議官、警視総監、
新の志士の中では三流に近かったのですが、一流はほとんど死に、田中顕助はただ奇跡的な長寿を得たため
に多くの栄誉をうけました。幕末は狂気じみた人間を数多く輩出し、ほとんどの人間が非業に倒れ、生き残った
人間が維新の功績を得たということです。
「最後の攘夷志士」はこの「幕末」に収録された最後の小説です。攘夷志士が京で英国公使サー・ハーリー・
パークスの行列を襲撃した事件を題材にしています。この小説にも「浪華城焼打」の田中顕助が深く関わってい
ます。浪華城(大坂城)焼打に失敗した田中顕助は大和中津川の山中に逃げ、ようやく京に潜入し、おりから洛
北白川村で浪士団陸援隊を率いている土佐浪士中岡慎太郎を知り、陸援隊に入隊します。入隊早々中岡が同
藩のよしみで副長格に抜擢してくれました。ほどなく中岡慎太郎が幕吏に暗殺されたため、顕助が隊長代理とな
ります。運がいいことに顕助が隊長代理になったとたんに、王政復古、討幕と舞台が大きくまわり始めました。こ
のため一昨々年前に土佐を飛び出したばかりの二十五才の青年が、周囲のめまぐるしい変化で、にわかに土
佐討幕派の巨魁の一人にのし上がったのです。まさに乱世といえるでしょう。そして討幕の密謀主である薩摩の
す。その前後相次いで諸藩の藩兵と外国兵との衝突事件が起こり、攘夷派浪士たちは激高します。新政府は建
前上は攘夷論で討幕を進めてきましたが、政府を樹立した以上、諸外国との外交上、攘夷などできるはずもな
く、開国論を取らざるを得なくなります。田中顕助はそんな新政府を時代の流れとしてとらえますが、三枝蓊他数
人の攘夷派は攘夷決行を画策します。
を出て御所に向かう途上、2人の男に襲撃されました。すぐさま護衛の中井弘蔵と後藤象二郎が反撃し、犯人の
一人朱雀操を斬殺しました。もう一人の犯人である三枝蓊も他の警護兵に重傷を負わされ、逃走しようとした所
を捕縛され、襲撃は失敗に終わりました(パークス襲撃事件) そして、三枝蓊は同年3月4日に斬首されたので
した。新政府は三枝と死んだ朱雀に対しては極刑をもって臨みました。かれらの士籍を削り、平民に落とし、朱
雀の死屍から、首を切りはなして、粟田口の刑場に梟(さら)しました。同じ梟首台に三枝の生首もならびました。
処刑の場所は粟田口であり、方法は武士に対する礼ではなく、斬首でした。ほんの数ケ月前なら、かれらは烈士
であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は叙勲の栄があったにかれらはちがいありません。その「攘夷」
のかどで攘夷党の旧同志によって処刑され、ついに永遠の罪名を着たのでした。
この本のあとがきで司馬さんはこう書き終えています。「暗殺は否定すべきであるが、幕末史は、かれら暗殺者
群によって暗い華やかさをそえることは否定できないようである」と・・・