弱い面があり百済国王は真剣に悩み、万一の有事事態(亡国)に備えて、国民を安全な場所に避難させる必要
本海流に乗り若狭に漂着し、冬場の豪雪を避けて近江へと南下し、当時の先端技術(製鉄、潅概、土木、建築 et
渡来した依智秦公(エチノハタギミ)の功績は大きく、愛知川一帯の原生林を切開き水田地帯としての愛知郡を開
拓した。したがって、湖東の一帯には、百済系の渡来人の集落が連綿と点在していたと推察されている。
百済寺は、推古14年(606年)10月21日に創建された近江の最古級寺院であり、その位徴は北緯35.1度線上に存
な配置であることが最近明らかになってきたという。つまり日本に暦・天文・地理・遁甲(兵術)・方術(仙人術)を伝
ルートで湖東地域に渡来・定着してゆく過程で、母国百済の光州と同一線上の近江に太郎坊を、山城に次郎坊
庭は東の山を借景に山腹を利用し、大きな池と変化に富む巨岩を配した豪華な池泉廻遊式ならびに観賞式の
美しい庭園、池には鯉が泳ぎ、せみしぐれの中、青葉が降るようにして庭を覆い尽くしていた。