京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

盛夏湖東百済寺その1 青葉降る

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滋賀県東近江市 百済寺町にある百済寺金剛輪寺西明寺と共に天台宗の古刹で湖東三山の一つである。
 
この地域は、有史以前の弥生時代から開かれていたといわれている。百済は、BC18年に高句麗から分離独立
 
したが高句麗新羅に較べ、百済は産業・経済・技術・文化面では第一級の国家であったが、政治・軍事的には
 
弱い面があり百済国王は真剣に悩み、万一の有事事態(亡国)に備えて、国民を安全な場所に避難させる必要
 
があると考え、その受入れ国として日本(飛鳥斑鳩)が妥当であるかを調査するために、百済博士「慧慈」(百済
 
亡命した高句麗僧)を派遣したという。そして百済(BC18~AD660)系の多くの渡来人が韓(朝鮮)半島先端から日
 
本海流に乗り若狭に漂着し、冬場の豪雪を避けて近江へと南下し、当時の先端技術(製鉄、潅概、土木、建築 et
 
c)や先進文化(千字文などの漢字、仏教文化 etc)を近江に伝えたという。とくに5世紀末に、中国・百済・日本へと
 
渡来した依智秦公(エチノハタギミ)の功績は大きく、愛知川一帯の原生林を切開き水田地帯としての愛知郡を開
 
拓した。したがって、湖東の一帯には、百済系の渡来人の集落が連綿と点在していたと推察されている。
 
百済寺は、推古14年(606年)10月21日に創建された近江の最古級寺院であり、その位徴は北緯35.1度線上に存
 
在する。この線上には、西に向かって、太郎坊(八日市)…比叡山…次郎坊(鞍馬山)…百済(光州)があり、東に
 
向かっては荒子観音寺…熱田神宮がほぼ同一線上に並ぶ。 この偶然とも思える配置は、実は必然的・意識的
 
な配置であることが最近明らかになってきたという。つまり日本に暦・天文・地理・遁甲(兵術)・方術(仙人術)を伝
 
えた百済僧「観勒」(日本最初の僧正)は、推古10年(602年)に来日し、百済寺創建のための選地・方位決定等に
 
大きく関与した様子が伺われ、百済寺開闢法要後の供養僧としても長く滞留している。 従って、百済人が若狭
 
ルートで湖東地域に渡来・定着してゆく過程で、母国百済の光州と同一線上の近江に太郎坊を、山城に次郎坊
 
を、鈴鹿山麓百済寺を意識して設定した可能性が高いという。
 
庭は東の山を借景に山腹を利用し、大きな池と変化に富む巨岩を配した豪華な池泉廻遊式ならびに観賞式の
 
美しい庭園、池には鯉が泳ぎ、せみしぐれの中、青葉が降るようにして庭を覆い尽くしていた。