小生の思い出話につきあっていただきたい。京都の市内の小学校に通っていたころ、この小学校の林間学
舎が京都市山科区の疎水端にあった。疎水端の道路から学舎の敷地に入るようになっていて、その学舎の
南側に桐畑や芋畑があった。ときどき校外授業でこの学舎に行って、自然と親しんだものだった。芋ほり
もよくやった。そんなことから山科とは小学校の頃から縁が深く、この疎水で水泳を楽しむため夏はよく
通ったものだ。近所の友達と連絡をとりあって京都駅に向かう。水着は既に身に着けて、手には30円を握
り占めていた。JR京都駅から東へ、東山トンネルを抜けると直ぐ山科駅である。この一区間の子供運賃が
10円で往復で20円、水泳の帰りに買うパンやアイスキャンデー代が10円、計30円である。30円で夏の一日
を過ごすことのできる時代であった。その頃の疎水は写真のような鉄柵はもちろんない。遊泳禁止とかそ
んな野暮ったい看板もない。今と変わらない急な流れに身を任せて川下りをして楽しむ。疎水から上ると
きが大変だった。当時も写真のように急斜面で、なおかつ水苔が張り付いていて滑りやすく疎水の縁に手
をかけるまでが大苦労であった。もちろん上れなくてもそのまま流れに身を任せていると、下流に水流を
調整するダムがあり川幅がひろくなって流れが緩やかになるからそこから上ればいい。学舎の前の疎水を
少し下流に向かうと今でも京都市立東山高校がある。この高校の正門前に架けられた橋から疎水に向かっ
てダイブする。もちろん立ち飛び込みであった。飛び込んで身体が沈んだときの感触は今でも覚えてい
る。
ある夏の日曜日、十数年前に亡くなった父がこの疎水に連れてきてくれた。小生が上流から疎水に入り、
流され、疎水の縁に座っている父に水上から手を振って、下流に流れて行く。これを何回も繰り返したも
のだ。父は縁に座って本を読んでいた。水上から声をかけると笑顔を向け、また読書に没頭する。その光
景は今も鮮明に覚えている。もちろん父と一緒だから帰りはパンやアイスキャンデーではない。京都駅前
の飲食店に連れていってくれた。
桜の咲いている疎水の風景は今も昔とは変わらないが、父が腰掛けていた疎水の縁には鉄柵が設けられ立
ち入り禁止の看板がいたるところに取り付けられている。帰り道いつも立ち寄った駄菓子屋ももうすでに
なく、あった場所さえ記憶にはない。もう一つ感触で覚えているのは、当時蒸気機関車に引っ張られた客
車はデッキのドアは手動で開けることが出来たから、東山トンネルに近づくとデッキのステップに座って
水中眼鏡をかけて首を出しトンネルの進行方向を凝視して、入り口が遠のき、出口が近づく様子を見て楽
しむのであった。機関車の煙はトンネルやデッキの中に充満するが息を止めてこらえるのである。すると
煙のなかの細かい石炭の粉が口に飛び込んでくる。口の中がジャリジャリし、次第に呼吸が苦しくなって
くる。もうだめだと思った瞬間、列車は漆黒の闇から明るい夏の山科の中に飛び出してゆく。
ひさしぶりの山科であった。今度は蝉時雨につつまれた夏の疎水を見たいと思っている。