京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

愛読書18 「城塞」

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「城塞」は昭和44年7月から平成46年10月まで週刊新潮に連載されました。関ヶ原から14年、徳川家康

天下とりを完全に果たすため、大阪城の秀頼、淀君に策謀をめぐらし開戦の口実をつくり、豊臣家を滅ぼ

します。豊臣の大阪方は西欧をはるかに凌ぐといわれた巨城に籠城して開戦を決意し、大阪冬ノ陣、夏ノ

陣を最後に陥落してゆく巨城の運命に託して、豊臣家滅亡の人間悲劇を描いています。

◎わたしと「城塞」

上記大坂城復元図や本丸絵図、大坂城下町地図を眺めてみて、現在の大坂市内中心部の地図と比べてみる

とまずそのスケールの大きさに驚かされます。豊臣秀吉天正11年(1583)に建設を始めた城下は、大坂

城の西側で大川から四天王寺に続く南北の細長い町で、国際貿易都市堺との連結をめざした都市プランに

基づいたものでした。そして文禄3年(1594)惣構(そうがまえ)の建設で、城下の西を東横堀川で区切

り、玉造地区が城下にくりこまれて城の南側も城下となりました。ところが慶長3年(1583)三の丸建設

と同時に船場が開発され城下は惣構をこえて一気に西に広がったのです。本丸は東西約530メートル、南

北約200メートル、詰の丸には天守閣や秀吉、北政所、そして300人をこえる大奥女性たちの住む奥御殿が

ありました。その本丸を深い水堀と空堀が取り巻いていました。また二の丸の堀は幅40間(約72メート

ル)、高さは15間から16間(約29メートル)にも及ぶ規模であり、惣構は、北は大川、南は八丁目、西は

東横堀、東は猫間川の範囲で上町や玉造の城下町をも囲い込んでいました。その威力は慶長19年(1614)

大坂冬の陣でいかんなく発揮され、15万5千の徳川軍が一兵もこの惣構の内側には攻め入ることができ

なかったほどでした。

広い戦場に軍を展開して戦う野戦を得意とする徳川家康は城を攻める攻城戦は得意ではなく、大坂冬の陣

では惣構の存在で、予想していた以上に徳川軍は苦戦を強いられました。家康にとってこの惣構と二の丸

の堀、本丸の堀を何とかせねばならないと考えます。そしていろいろ策謀を図った結果、豊臣方に和議を

申し入れ、惣構を埋めることを条件としたのでした。豊臣方は惣構を埋める程度で和議が成立するならば

と条件を飲んだのです。これが家康の策謀です。和議が成って惣構を埋めてしまうと、その勢いで二の丸

の堀まで埋めてしまったのです。当然豊臣方は抗議しましたがもう後の祭です。そして翌年夏の陣が始ま

ると、難攻不落だった大坂城は本丸の堀を除いてすべて埋められていますからまさに裸同然です。そして

大坂城は簡単に落ち、豊臣家は滅亡したのでした。戦国時代を生き抜いたしたたかな百戦練磨の武将の真

髄を家康に見る思いです。もし豊臣方が和議の申し入れをはねつけ、大坂城に籠城して戦っていれば戦い

は長期化して、その後の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

司馬さんは小説の中でこう書いています。

前略

「総濠(そうぼり)をうずめる」

ということで、和睦条約は成立している。総濠とは、惣濠とも書く。惣というのは、惣堀、惣囲などとい

う言葉があるように、建造物のもっとも外側の区劃をさす。要するに外濠である。

が、家康は曲げた。この総の意味を、

「総(すべ)ての濠」

とし、すべての濠をうずめて裸城にせよ、とひそかに命じたのである。しかし本丸の濠までは埋めにくい

であろう。家康がいうには、それはさておくとして、三の丸の濠をうずめた勢いで二の丸の濠までうずめ

てしまえ、ということであった。

れをこう命じたとき、家康はこの一事によって、かれの70余年の生涯とその歴史上の存在印象を一変させ

てしまうほどの悪印象を後世にあたえようとは、思いもしなかった。家康のこの時代、

-後世は自分をどう思うか。

などという思想はない。自分の存在と行動を歴史という大きな流れの場において見るという習慣は、この

時代にはまるでなかった。家康の配慮のすべては、ただ、

-大坂をどう騙すか。

ということに集中していた。

後略
                                        「城塞」から

大坂城絵図等関係資料 図説大阪府の歴史(河出書房新社)から