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愛読書19 「新史太閤記」

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「新史太閤記」は昭和41年2月から昭和43年3月まで小説新潮に連載されました。あまりにも有名な豊臣秀

吉の出世物語です。猿と呼ばれた小僧の時代から、織田信長にその天分を見出されて織田軍団の中で出世

街道を驀進、信長が本能寺の変で亡くなったあと天下を手中に治め、徳川家康に臣下の礼を取らせて名実

ともに天下人になったところでこの小説は終わります。

◎わたしと「新史太閤記

司馬さんは歴史小説家としてたくさんの歴史上の人物を独特の視点で鮮やかに描いてきました。織田信長

徳川家康、斉藤道三、明智光秀黒田官兵衛、長曾我部元親、北条早雲松平容保坂本竜馬、武智半平

太、中岡慎太郎吉田松陰高杉晋作河井継之助土方歳三近藤勇沖田総司等々です。いずれも波

乱に満ちたその人物の生涯が描かれています。特に生涯を終えるとき、すなわち臨終の場面についてはい

ろいろな歴史に残されたエピソードを交えながら描いています。しかし司馬さんは源義経とこの豊臣秀吉

の二人の英傑については最後まで書いていません。源義経については最後に奥州の衣川で自害し、その首

が酒漬けにされて鎌倉に送られてきたことまでが簡単に淡々とした文章で書かれていますが、豊臣秀吉

ついては最後に次のような文章でその死に触れているにすぎません。

前略

その生涯を狂言の連続とすれば、なんとながい狂言であったことであろう。この男の生涯のおわりは、家

康上洛のこの時期からさほど長くもなく、わずか十二年目の慶長三年の八月に死ぬ。

後略                                     「新史太閤記」から

歴史小説とは描くその人物を建物の屋上から俯瞰して眺めるようなものだと司馬さんはいっています。生

まれた瞬間から死ぬまでの一生は後世のものは皆知っていますが、当の本人は自分の未来について何もわ

かりません。だから歴史小説は面白いのだということです。その考え方からすれば豊臣秀吉の生涯を描こ

うとしたこの小説は中途半端に終わっているといっていいと思います。司馬さんは「武士のいさぎよさ」

と「名こそ惜しけれ」という言葉が大好きで、それを書くために歴史小説を書いてきたといっても過言で

はありません。坂本竜馬、武智半平太、中岡慎太郎吉田松陰高杉晋作河井継之助土方歳三、近藤

勇、沖田総司等は武士です。まことの武士を描くにはその死に様を描くことは避けられません。織田信長

徳川家康、斉藤道三、明智光秀等はその死が歴史に大きく影響していますからやはりその死を描かなくて

はなりません。その論法からいけば豊臣秀吉についても最後まで書くべきでしょう。豊臣秀吉については

その臨終には数々のエピソードか残されています。秀吉の最後を描くに材料は十分にあります。ならばな

ぜ司馬さんは豊臣秀吉だけについては最後を省いてしまったのでしょうか。徳川家康を臣下に迎えてから

天下人としての歴史上の功績はたくさんあります。財政の基盤を築いた太閤検地や戦国時代の目を摘んだ

刀狩り、華やかな桃山文化の成立などです。秀吉の底抜けの明るさが司馬さんは大好きでした。坂本竜馬

のように明るく元気な人物を司馬さんはこよなく愛しました。ところが天下を取り、秀頼が生まれた頃か

らの秀吉は老いも手伝ってか人が変わったようになっていったのです。朝鮮の役のように天下人としての

おごりや征服欲、関白秀次一族の抹殺等権力欲の陰惨な血に彩られた最晩年となりました。司馬さんにと

っては大好きな人物だけにその陰惨な晩年を描くことは耐えられなかったのでしょう。やさしいまなざし

を向けながら歴史上の人物を描いてきた司馬さんにとって豊臣秀吉はいつまでも「日輪の子」であってほ

しいのです。