「関ヶ原」は昭和39年7月から昭和41年8月まで週刊サンケイに連載されました。豊臣秀吉亡きあと天下とり
をめざす徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成の戦いを描いた小説です。小説の終盤はいわゆる天
下分け目の関が原の戦いが描かれ、この小説の中核をなしています。戦いの結果徳川家康が勝利し、天下
とりの基盤を築くこととなります。司馬さんは関ヶ原の両軍の布陣や両軍の戦力からみて当然石田方の勝
利で終わるはずが徳川方の圧倒的勝利となった理由を、当時の時代的背景や徳川家康、石田三成の将とし
ての資質や戦略、戦術等を詳細に分析して明快に説明しています。両軍の時間を追った動きの記述部分を
読んでいると、まるで読者が戦争ゲームに参加しているような興奮を覚えます。
◎わたしと「関ヶ原」
関ヶ原の戦いは若いときから幾多の戦いを経験してきた老獪な徳川家康と豊臣秀吉にその才を見込まれ、
豊臣政権の中枢にまで昇りつめた石田三成の戦いということができます。豊臣政権は成立すると同時に大
きな問題を抱えることとなります。愛読書16「翔ぶが如く」でも「最終段階は革命の成就した後の社会を
建設する官吏的行政能力を備えた実務に長けた人物が登場します。」と少し触れましたが、戦いにより天
下を取ると、戦いに長けた武将より行政能力に長けた官僚が必要とする時代になります。豊臣秀吉が子供
の頃から目をかけ育ててきた武将、たとえば加藤清正、福島正則、浅野幸長達は武功には強いけれど、行
政能力はありません。一方秀吉が近江の長浜城主となってから召抱えた石田三成や長束正家、増田長盛た
ちは最初から官吏として登用されていますから行政能力は高いが武将ではありません。ここに武功派と官
僚の対立が生じることとなります。いわゆる制服組と官僚との対立です。秀吉は戦国の時代をともに生き
抜いてきた武功派の心情は理解していますが、領国経営を推進するには行政の実務家を欠くことはできま
せん。自然と秀吉の周りには官僚が取り囲み、武功派は遠ざけられることとなります。そして武功派はか
つてのように気軽に秀吉に近づくことさえ出来ず、官僚を通さないと秀吉に面会もできません。織田信長
は天下を手中にしたときそれまでは行政能力のある明智光秀を多用しましたが、政権末期にはかつての室
町幕府の官僚だった人材を登用しているように、信長でさえ実務官僚を必要としたのです。でも信長は強
権でもって政権を管理しましたから、表面上対立が発生することはなかったのでした。ただ信長が本能寺
で横死しないで、もうしばらく織田政権が続いていたら対立が生じたかもしれません。徳川家康の場合も
同様に対立が生じましたが、徳川秀忠に政権を委譲したとき家康の周囲にいた武功派はすべて大御所付と
して駿府に連れて行き、秀忠には官僚たちだけ就けましたからやはりそういう対立は生じなかったので
す。もちろん家康は長生きしましたから家康とともに戦った武功派はすでに亡くなっていて誰もいなかっ
たということでしょう。秀吉の場合は突然天下が手に入ったということもあり、戦国時代の生々しさや
荒々しさの雰囲気がまだ強烈に残っている時代に一方では天下を治めなければならないという時代背景が
ありました。それに加えて武功派は尾張の出身であり、同じく尾張の出身である北政所が若い頃から面倒
をみてきたことから武功派イコール北政所派であり、一方官僚は近江出身者であり、近江の名門浅井家出
身の淀君の周囲に集まりましたから官僚派イコール淀君派、すなわち北政所派対淀君派という対立の図式
が出来上がりました。この対立をうまく利用したのが家康だったのです。家康は歴戦の勇士であり、武功
派に畏敬の念で見られています。その家康に声をかけられた武功派は奮起します。豊臣家と徳川家の天下
とりの対立という図式を豊臣恩顧の武功派と官僚派との対立に置き換えて天下とりを進めた家康のしたた
かな計算、これを司馬さんは謀才、謀智、謀略、謀議という言い方で述べていますが、まさに後世狸親父
と呼ばれ、人間像の一つの典型としていわれるようになった家康の真骨頂がそこにはあります。