京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

秋の敦賀金ヶ崎城址をゆくその3

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碑の建っている山道の突き当りにある視界の開けた場所がかつては月見御殿と呼ばれた南北朝時代の金ヶ城

の本丸跡であり、戦国時代にも武将たちが月見をしたと伝えられている。海抜86メートルの金ヶ崎の最高地であ

り、月見御殿跡からは敦賀湾が一望でき、眼下に広がる敦賀港の岸壁は、東方にある敦賀火力発電所の石炭

等の荷揚岸壁で大型貨物船が停泊していた。目を少し遠くにやると敦賀と北海道苫小牧を繋ぐ新日本海フェ

リーの敦賀フェリーターミナルも遠望できる素晴らしい眺望が広がっていた。

金ヶ崎城は「太平記」に「かの城の有様は、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要

害の地であったことがわかる。戦国時代の元亀元年(1570年)4月、織田信長朝倉義景討伐の軍を起こして

徳川家康木下藤吉郎豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、この金ヶ崎城とすぐ東にある手筒山の手筒城を落とし越

前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの情報が入り、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟

まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城で殿(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍

織田信長は無事京に戻ることができたと伝えられている。またこの殿の秀吉軍に残って秀吉を助けたのが徳

川家康で、後の天正14年(1586年)家康上洛にあたり、秀吉は金ヶ崎城での戦いの救援に謝意を表したとされて

いる。すでに15,6年前のことであり天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ヶ崎城の戦いはその後の二人の

関係に大きな影響を与えたといっていいかもしれない。