京・近江の写真 春夏秋冬

京、近江四季折々の自然の風景とそこに住む人々、祭り、伝統芸能の写真

三内丸山遺跡その2

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わたしがこの「三内丸山遺跡」の名前を初めて目にしたのは司馬遼太郎氏の「街道をゆく41・北のまほろば」であった。この本の中の「翡翠の好み」で司馬遼太郎氏はこう書いている。
この県は宏大である。そういうわけで、この紀行は、長くなりそうである。まだ津軽もおわらず、南部や下北にも至っていないのに、夏がきてしまった。そのうち大阪の自宅で朝日新聞の夕刊をひろげたとき(1994.7.16)一面トップに大変な記事が出ていることに驚かされた。「4500年前の巨大木柱出土」という。青森県にである。縄文中期いう大むかしに、塔までそぴえさせているような大集落遺跡がみつかったのである。ヒトは農業をはじめてから、ムラをつくり、やがて国をつくった。縄文時代のような採集生活では、一家族か数家族が移動してくらすために、ムラをなさない。そう思われていたのが、青森県縄文時代はよほど文化が熟していたのか、大集落をもち、集落としての秩序をそなえ、たかだかと望楼のような構造まで持っていたのである。場所は、青森市郊外の三内丸山である。多数の竪穴式住居のまわりには、食糧倉庫かと思われる高床式の建物が数十棟もあったようである。共有の倉庫あともみつかった。食料の貯蔵という思想がこうも濃厚に存在したということも驚きの一つだった。かれらは採り歩き、食べ歩いているという古い縄文観は、まったくくつがえった巨大な柱穴が六個出てきた。その関係位置や深さから察して、楼閣跡であることは容易に推察できる。柱の太さは薬師寺の三重塔の柱に匹敵するという。これよりもはるかな後世(ほぼ二千数百年後)の弥生時代佐賀県吉野ヶ里遺跡から望楼の柱穴が出た。それよりも二千年もふるい。柱穴の直径から想像して、高さ二〇メートルはある望楼あるいは楼閣かと想像されている。白昼夢のような話である。港町から出発した青森市の市街地は、陸奥湾という、懐のひろい入海に面している遺跡が出てきた三内という地は、海岸の低い丘陵地帯である(当時、いまの青森市街地は海底にあり、海は遺跡の丘のふもとまできていた)。