して重視され、軍事的な意味からも幕府の直轄下に置かれた。そのため他の『渡』と同じく通年の架橋
は許されず、地元 泉村 に『渡』の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせた。これによると三
月から九月の間は四艘の船による船渡しとし、十月から翌二月までの問は、流路の部分に土橋を架けて
通行させたようである。野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石
も顔を見せ、道中の難所に数えられたという。その跡地に今も残るのがこの常夜燈である。文政5(182
2)年、旅人の目印として建てられた石燈籠で、高さは7m以上もある立派なもので街道随一の規模を誇
り、水口が東海道の宿場町として栄えた頃の面影を残す史跡の一つである。
明治24年この場所に長大な板橋が架けられ横田橋と呼ばれた。現在も残されている石垣は当時の橋台の
され、昭和27年には国道一号線の敷設によって現在の横田橋となった。