ら刊行されました。司馬さんはこの作品などの功績により第9回毎日芸術賞を受賞しました。
この作品は自宅跡も含め各地に乃木神社が建つなど、神格化された乃木像に対し痛烈な批評を加え、『坂の上
の雲』とともに「乃木愚将論」の基盤となったのです。司馬さん自身は最も書き上げるのに難渋した作品と回想し
ています。
わたしと「殉死」
この小説で司馬さんは随所で以下のような文章で痛烈な批評を加えています。
○ただしこの時期におけるこの若者の筋目ほど時勢の輝きを反射していたものはない。第一にかれは長州人で
あることであった。
○この明治の主動勢力のなかにおける筋目のよさは無類といっていい。
ある。希典の役目は副官であった。副官とは、上官の公務上の身辺の処理をする役であり、秘書役とでもい
うべきであろう。この点、希典はその好む好まぬは別にせよ、藩閥の寵児であったといえる。
○連隊長みずから隊をすてて伝令になるというのは、日本式指揮法にも洋式指揮法にもない。指揮技術に習熟
しなかったためか、敗戦で動転したのか、それともそばに兵がいなかったのか、どうであろう。
○軍隊の通念からいえば指揮官の指揮能力があるかないかに帰せねばならないであろう。
日露戦争の記述の中では
○このとき、旅順と聞いて、男爵陸軍中将乃木希典が軍事技術者としてどういう反応を示したか、その点もわか
らない。
る的確な想像力であった。
火砲が必要ならば、のちこの戦役中に日本が独逸のグルップ会社に急場の注文をしたように、この時期にお
いて出来ぬはずはなかった。が、乃木はこれについては一切黙然とし、なんの要求もださず、意見も具申し
なかった。
○ともあれ、乃木希典は近代要塞に関する専門知識を示さなかったし、示すほどの知識はこの精神科にはなか
ったようにおもわれる。
○しかしながら、乃木と伊地知(注 伊地知幸介・第三軍参謀長)は、なおも二〇三高地に攻撃の主眼を置こうと
せず、頑固に最初の強襲攻撃の方針をすてず、連日おびただしい死を累積させつつあり、そういう乃木や伊
地知のすがた は、冷静な専門家の目からみれば無能というよりも狂人にちかかった。
鳴らし、「たれか、乃木とおれのねぐらを都合しろ」といった。児玉にすれば、乃木の将軍としての演技にかま
っていられない。
○乃木のその詩的生涯が日本国家へ貢献した最大のものは、水師営における登場であったであろう。かれに
よって日本人の武士道的映像が、世界に印象された。
○いまひとつはもし乃木を旅順攻略後に罷免するとすれば旅順における日本軍の戦闘が、最後は勝利をおさめ
たとはいえ、その途上において記録的な敗戦をつづけたということを世界に喧伝する結果になり、外国におけ
る起債にひびくことはあきらかであった。このため、乃木と伊地知以下の人事は国際信用のためにもさわるこ
とができなかった。
○乃木は自分の軍事能力に(あるいはその不運に)絶望するとき、つねに自殺を思い、自殺によって自分を恥辱
から救いだし、別の場所で武人としての美の世界に入ろうとする衝動が、反射のようにおこるようであった。
○自分の恥辱をこのように明文して奏上する勇気と醇気は、おそらく乃木以外のどの軍人にもないであろう。こ
の復命書を児玉が私(ひそ)かに読んだとき、「これが乃木だ」と、その畏敬する友人のために賛辞した。児玉
にとって乃木ほど無能で手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあまりの無能さのゆえに殺したいほどら腹だた
しかったが、しかし軍事技術以外の場面になってしまえば、児玉は乃木のようなまねはできない自分を知って
いた。児玉ならたとえ失敗して一軍を死にあとしいれることがあっても、そのあとでこのように純粋な泣きっ面
はできなかったであろう。これが乃木だ、というのは乃木の美しさはそこだという意味であったように思われ
る。
7月23日、原因不明の熱病によりにわかに死去した。対露作戦で生命を消耗しきったためであろうといわれた。
乃木はその時期から数年生き、明治45年7月30日、明治帝の崩御とともに死を決し、その大葬の日、東京赤坂
区新坂町五十五番地の自邸で殉死し、夫人静子もまたその夫の死に殉じた。
という文章でこの小説は終わっています。