す。ここでいう「普遍的」とは国境・民族の垣根を超えて通用する人物という意味であり、土俗の呪術として多分
に雑多な状態にあった密教を破綻のない体系として新たにまとめ上げ、本場のインドや中国にもなかった鮮や
かな思想体系を築き上げたこの空海の出現によって、日本は歴史上初めてそうした「人類的存在」を得ることが
る史料が乏しく空海の人物に肉薄することが甚だ困難であり、せめて彼が存在した時代の彼にまつわる風景を
想像することによって、朧げながらもそこに空海の人物像が浮かぶことを期待して執筆されたことにちなむものと
司馬さんは言っています。司馬夫人の福田みどりさんによると本作は生前の司馬さんが最も気に入っていた作
品で、サイン本を献本する際にも必ず本作を用いたほどだったといいます。
灌頂を受けて帰国の途につくこととなります。ところが日本へ帰ってみるといち早く帰国していた最澄が断片的な
持っていた悪印象を多少なりとも改め、以後両者の親交が始まることとなります。しかし伝法には時間がかかる
で書物によってはならないという伝統があるにも関わらずに借経を願い続け、空海の鬱壊を次第に募らせてゆく
るものとしか考えておらず、そうした姿勢を変えるつもりは元よりなかったのです。さらに最澄の愛弟子の泰範が
させようと質量ともに膨大な仕事をこなしました。医療施薬から土木灌漑、果ては文芸・美術・思想哲学の涵養に
至るまで、その後の日本文化の礎となる部分をほとんど独力で整備したのです。また、そのかたわら空海は紀
の建設に着手しました。空海は早くから自身の死期を察し、弟子たちにもそのことを予告し、予告することによっ
て弟子たちの気を引き締めさせたのです。やり残したことを為すべく病を得た身体を押して精力的に活動し、そし
て死病に抗って醜態を晒すことなく荘厳な死を遂げようと考え、五穀を断って肉体を衰えさせた末に静かに死を
けてこれを弔したといわれます。
◎わたしと「空海の風景」
るこの物語は小説といっていいのか、伝記といっていいのか、評伝といっていいのか、はたまた宗教論といって
いいのか、いずれのジャンルにいれていいのかわかりません。しかし司馬さんは空海という人物を生々しくその
は偉大な宗教家であり、聖人であり、仰ぎ見ることさえはばかられる歴史上の偉人です。そんな人物を、悩み、
恋し、嫉妬し、功名心に走る俗人の面も併せ持つ人物として描かれていることに、空海の研究家は激しく非難し
ますが、空海の人間的魅力を司馬さんは独特の文体で語ってゆきます。
司馬さんは戦前旧大阪外国語学校蒙古語科に在籍中に学徒出陣で陸軍に徴兵されることになります。もうすぐ
軍隊に入隊するある日娑婆の名残りにと、友人と奈良の山に分け入り、道に迷って遭難しかかったことがありま
周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置し、100か寺以上の寺院が密集する、日本では
んは生も死も超絶した心境になったといいます。若い司馬さんにとっては空海との出会いは強烈なものだったの
です。