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愛読書27「空海の風景」

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空海の風景」は「中央公論」1973年(昭和48年)1月号から1975年(昭和50年)9月号に連載されました。

平安時代初期に密教を独自に体系化し、真言宗の開祖となった空海を扱った作品で、第三十二回(昭和50年

度)芸術院恩賜賞文芸部門受賞作。司馬さんは本作で空海を「日本史上初めての普遍的天才」と評していま

す。ここでいう「普遍的」とは国境・民族の垣根を超えて通用する人物という意味であり、土俗の呪術として多分

に雑多な状態にあった密教を破綻のない体系として新たにまとめ上げ、本場のインドや中国にもなかった鮮や

かな思想体系を築き上げたこの空海の出現によって、日本は歴史上初めてそうした「人類的存在」を得ることが

できたと評しています。タイトルの「空海の風景」とは、空海の生きた時代がはるかに遠い古代であるため現存す

る史料が乏しく空海の人物に肉薄することが甚だ困難であり、せめて彼が存在した時代の彼にまつわる風景を

想像することによって、朧げながらもそこに空海の人物像が浮かぶことを期待して執筆されたことにちなむものと

司馬さんは言っています。司馬夫人の福田みどりさんによると本作は生前の司馬さんが最も気に入っていた作

品で、サイン本を献本する際にも必ず本作を用いたほどだったといいます。

難儀な航海の果てに唐に辿り着いた空海は、長安の都で金剛頂系と大日経系の二つの密教体系を受け継ぐ大

唐でも唯一の僧である青竜寺の恵果和尚に師事し、恵果の法統の正嫡の伝承者・真言密教第八世法王として

灌頂を受けて帰国の途につくこととなります。ところが日本へ帰ってみるといち早く帰国していた最澄が断片的な

密教をすでにもたらしており、密教の評判を聞いてその到来を待ち望んでいた宮廷によってもてはやされていま

した。最澄の本来の目的は天台の体系の導入であり、密教はその断片をついでに拾って帰ったに過ぎなかった

のですが、密教を求める時勢の中で虚勢を張るつもりはなくとも密教の専門家として振る舞わざるを得なくなりま

した。やがて密一乗の伝法を受けた空海の帰国によってその密教が粗漏なものにすぎないことが明らかになり

盛名を落とすことになりますが、最澄は抗弁せずに己の落ち度を率直に認めて密教を一から学び直そうと空海

の門を叩きます。弟子の礼をとってまで教えを請うその実直な人柄に触れたことにより、空海はそれまで最澄

持っていた悪印象を多少なりとも改め、以後両者の親交が始まることとなります。しかし伝法には時間がかかる

と知ると、最澄は自身の代わりに高弟たちを送って不興を買しました。さらに密教の伝承は師資相承によるもの

で書物によってはならないという伝統があるにも関わらずに借経を願い続け、空海の鬱壊を次第に募らせてゆく

のです。所詮、最澄にとっては天台の教義を体系立てることこそが宿願であり、密教とはあくまでそれを補完す

るものとしか考えておらず、そうした姿勢を変えるつもりは元よりなかったのです。さらに最澄の愛弟子の泰範が

空海に魅せられて最澄の下を出奔する事件も重なり、ことここに至って両者は絶縁することとなりました。帰国後

空海真言密教の体系化に力を尽くす一方で、大唐に比べればいまだ未開の段階にある日本に文明を定着

させようと質量ともに膨大な仕事をこなしました。医療施薬から土木灌漑、果ては文芸・美術・思想哲学の涵養に

至るまで、その後の日本文化の礎となる部分をほとんど独力で整備したのです。また、そのかたわら空海は紀

伊国南部の高野山に施工の段階から密教思想を体現したインドにも唐にもない寺院を造ろうと考え、高野山

の建設に着手しました。空海は早くから自身の死期を察し、弟子たちにもそのことを予告し、予告することによっ

て弟子たちの気を引き締めさせたのです。やり残したことを為すべく病を得た身体を押して精力的に活動し、そし

て死病に抗って醜態を晒すことなく荘厳な死を遂げようと考え、五穀を断って肉体を衰えさせた末に静かに死を

迎えました。空海の死は長安青竜寺にも伝えられ、報に接した青竜寺では一山粛然とし、ことごとく素服を着

けてこれを弔したといわれます。

◎わたしと「空海の風景

「僧空海がうまれた讃岐のくにというのは、茅渟(ちぬ)の網をへだてて畿内に接している」という書き出しで始ま

るこの物語は小説といっていいのか、伝記といっていいのか、評伝といっていいのか、はたまた宗教論といって

いいのか、いずれのジャンルにいれていいのかわかりません。しかし司馬さんは空海という人物を生々しくその

生きざまを掘り下げて、読む者を物語に引きづり込んでいきます。一般の人々にとって空海、すなわち弘法大師

は偉大な宗教家であり、聖人であり、仰ぎ見ることさえはばかられる歴史上の偉人です。そんな人物を、悩み、

恋し、嫉妬し、功名心に走る俗人の面も併せ持つ人物として描かれていることに、空海の研究家は激しく非難し

ますが、空海の人間的魅力を司馬さんは独特の文体で語ってゆきます。

司馬さんは戦前旧大阪外国語学校蒙古語科に在籍中に学徒出陣で陸軍に徴兵されることになります。もうすぐ

軍隊に入隊するある日娑婆の名残りにと、友人と奈良の山に分け入り、道に迷って遭難しかかったことがありま

す。迷い迷いようやくたどり着いたのが高野山であり、高野山真言宗総本山金剛峰寺だったのです。高野山

周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置し、100か寺以上の寺院が密集する、日本では

他に例を見ない宗教都市であり、京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海弘法大師)が修禅の道場として

開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山です。そんな別世界に迷い出るようにして入った司馬さ

んは生も死も超絶した心境になったといいます。若い司馬さんにとっては空海との出会いは強烈なものだったの

です。