ている。織田信長亡き後、八幡城下に移住してきた人々は、既に4月に行われていた八幡まつりに参加を申し入
れたが、松明の奉火場所が無く、また新参とのことで断られたため、これに対して、安土で行われていた左義長
まつりを始めたことが起源とされているとも伝えられている。近年の左義長まつりには、旧城下町の各町から13
棒を通し、つり縄で括り固め御輿のように担ぐように作り上げる(これ全体を左義長と呼ぶ)。前方となる正面に
「だし」と呼ぶ作り物は意匠を凝らし、時間をかけ経費を惜しまず各町の誇りをかけて制作される。
左義長の担い手は踊子(おどりこ)と呼ばれ、その服装は、揃いの半纏を羽織る姿が一般的である。近年は少数
も少なくはない。これには、諸説あるが、織田信長が自らの正体を隠すために派手な出で立ちで参加したとの話
を、近世の人々が変装するものと解釈したのではないかと言われている。
げ」、後者は「左義長めしませ」からこのような掛け声になったものと思われる。
夜遅くまで続く。